では、さらに記述的意味と評価的意味の両方を逆転させるとどうなるのか?そのとき以前は、その島では「敵の首を狩ること」は「よいこと」であり、称賛されたのですが、そのとき以降は、それは「悪いこと」になり(記述的意味の逆転)、それゆえ賞賛されることになる(評価的意味の逆転)。これも論理的に可能ですが、いまはいたずらに読者を混乱させたくないので、今回は省きます。
つまり、「よい」という記述的意味は状況によって、容易に変化し逆転すらすることは確かですが、それは、その評価的意味が安定していることに支えられているのであって、そうでなければ、われわれは「よい」という言葉を状況に応じて理解できないはずなのです。
マッカーサーが厚木に降り立った途端にそれまで徹底的に「悪いもの」であった「アメリカ流」は突如「よいもの」に変わったときですら、「よい」という言葉の(評価的)意味は維持されている。
この意味で、ソクラテスは、「よい人」は誰でも「よいこと」しかなしえないと言っているわけではないのですが、「よい人」が「よい」の評価的意味を知っているということは確かです。それどころか、じつは(まともな)すべての人は、「よい」のほとんど一義的な評価的意味を信じ込んでいて、それから、わずかでも逸れようとはしない。
だから、万引きした人も、文書を改ざんした人も、偽証した人も、それが悪い(記述的意味)と知りながら、同時にそれを「よい」と思っていたから、すなわち自分なりに賛同的態度を取っていたから、万引きし、改ざんし、偽証したのですが、決してそうは言わない。そう語ることは、ある共同体において普遍的に賞賛されるという本来の評価的意味を(個人的賞賛へと変えることによって)害するからです。
われわれが言葉を使用するかぎり
この縛りは強力です。法律の次元では、何が「よいこと」かがある程度決まっていることは確かだとしても、誰も自他ともにその評価的意味の変更を認めることはない。
だから、「私はちっとも悪くない、なぜなら私は偽証をしたからだ」とか、「私は悪くない、なぜなら私は偽証が悪くないと思っているからだ」と言って自己弁護する人はいない。
ここで、やっとはじめの「真実」という言葉に戻ります。真実の記述的意味はかなり揺らぎますが、同じように、その評価的意味は寸毫も揺らがない。どんな政治家も「私はウソばかりついているので、ご支援をお願いします」とは言わないし、どんな官僚も「私は1度も真実を語ろうなどと思ったことはない、よって信頼してください」とは言わない。
こうして、国会でもジャーナリズムでも、延々と「よいこと」や「真実」の記述的意味ばかり議論していますが、総理大臣や理財局の局長から一介の新聞記者や頭の悪いコメンテータまで一致しているのは、「よい」や「真実」の評価的意味を絶対に崩してはならないという一致団結した(無意識の)固い決意です。
これをカントの言葉で言いかえれば、われわれ人間はすべて、言葉を使用するかぎり、理性の命ずる定言命法に従っており、その絶対的支配下にあるということでしょう。もちろん、上に挙げた例のように、あえて従わないこともできますが、その場合、まともな精神状態ではない者、すなわち精神病者(?)とみなされるというわけですから、その意味で、じつは極東のこの国でも200年前に9000キロ彼方で死んだカント的理性主義は健在なのです。
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