哲学者ほど「理性」を信じていない者はいない 哲学に期待しているのはむしろ「俗人」だ

✎ 1〜 ✎ 33 ✎ 34 ✎ 35 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
俗人は「理性」や「哲学」を美化している(写真:georgeclerk / iStock)

前回は、言葉の意味の問題を扱いました。言葉には「意味」がへばりついていますが、意味とは何かはよくわからない。漠然と「標準的意味」があるらしいのですが、それに従わねばならないという強制からは原則的に脱出できるはずなのに、われわれは多くの場合、盲目的に標準的意味に従ってしまう。これは、どうしてなのだろうか、という問いを掲げてみましたが、なかなか伝わらなかったようです。

そこで、もう1度、言いますと、述語を「彼の身長は170センチメートルだ」という「記述語」と「彼は不誠実だ」という「評価語」とに分けてみますと、前者の場合「170センチメートル」の標準的意味を変更して使用するのはほぼ禁じられているのに対して、後者の場合、はるかに許容されるように見えます。

評価語でも、拘束のもとにある

こう語るとき、私は各個人が「不誠実」にそれぞれ固有の意味を付与していい、と言いたかったわけではないのですが、「非哲学的な人が無視している『語義の個人差』」というタイトル(これは編集者がつけたもの)、によって、そう誤解されたようです。だが、じつは、評価語でも、文脈によってかなりの拘束のもとにある。

例えば、「不誠実なところが彼の短所です」とか「私は、彼が不誠実だから嫌いです」という文章の意味は誰でもすらっとわかりますが、「不誠実なところが彼の長所です」とか「私は、彼が不誠実だから好きです」いう言葉を聞いた瞬間、にわかには理解できない。そこには、深い(複雑な)意味があるのだろうと推量してしまう。

この連載の記事一覧はこちら

こうした事例でわかるとおり、評価語においても各自勝手に個人的意味を付与することが許されるわけではなく、標準的意味から逸れて使用する場合、発話者に「説明責任」が生じるのが普通です。「世の人は誠実ぶっていてじつは不誠実ですが、自分の不誠実さを隠さないところが彼の長所と言えるかもしれません」とか「私は、彼が堂々と不誠実さを貫くそのふてぶてしさが颯爽としていて好きです」と言いかえてはじめて、他人は標準的意味からずれた「不誠実」という言葉の使用法すなわち意味を許してくれる。

次ページ長所・短所、好き・嫌いでさえ
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事