このことから見えてくるのは、普通の会話において、じつは長所・短所、好き・嫌いでさえ、それに付与する意味は、個人の自由に委ねられていない。反撥を買う以前に、まるでわかってもらえないという強制のもとにあるのです。そして、3000年に及ぶ長い哲学の歴史において、言葉の意味に関するこうした問いが生じたのは、ごく最近(20世紀になってから)である、ということも知っておく必要がありましょう。
それ以前までは、デカルトもロックも、ヒュームもカントも、ヘーゲルもキルケゴールも、(事実上標準的意味を大幅に変更して固有の哲学を構築していますが)そのこと自体を問題にすることはなかった。しかし、二ーチェからじわじわとこの問題が哲学界を侵食しはじめ、フッサールやフレーゲあるいはヴィトゲンシュタイン以降、哲学における最大の問題になったとさえ言っていいでしょう。
さて、これで、ようやく今回のテーマにつながりました。ヒュームは全人類を「俗人(vulgar)」と「哲学者(philosopher)」とに分けました。というと、また物のわかっていない人は、前者が低級で後者が高級だと思い込んだうえで、「威張るな!」とからんでくる(大森荘蔵先生は、常々「前者を「まともな人」後者を「まともでない人」と訳すべきだと主張していました)。
そういう批判を覚悟のうえで、便利ですから以下この呼称を利用しますと、いつも「哲学塾」で痛感することであり、この連載をしていても(多くのコメントから)感ずることですが、俗人の見解と哲学者の見解は見事にずれており、あえてまとめてみれば、俗人のほうがはるかに(いわゆる)哲学を尊重し哲学に期待しており、哲学者のほうがはるかに(いわゆる)哲学に対する軽蔑と不信感に満たされている。
数々のコメントにおいても、「哲学者がそんな些細なことにこだわっていいのか」とか「そんな軽薄な思考法では、哲学者の風上にも置けない」というふうな批判が多いのに対して、「哲学者たるもの、そんなに真剣に考えていいのか」とか「そんなに厳密に考えては、哲学者として失格だ」という批判は皆無といったところ。俗人は哲学について何も知らないながらに(知らないからこそ)「哲学」とか「哲学者」という言葉にこびりついている因習的意味を変えようとしないのです。
哲学に足を突っ込んで10年も経てば、「哲学」がいかにくだらないことであるか、この世で哲学者ほど下品で不誠実で卑劣な(以上にはくれぐれも標準的意味を付与すること)輩などいないことは、身に沁みてわかっている。そんなことは、もうア・プリオリ(必然的かつ普遍的)な真理なので、同業者たちは口に出して言わないだけなのですが、これが俗人には絶望的に伝わらない。
まず「哲学」を天にまで高めてから、それに従事する個々の「哲学者」を「それでは駄目だ」と叱咤激励する、あるいは「嘆かわしいことだ」と裁く。まさに「哲学」や「哲学者」という言葉の標準的意味を変えようなどとは微塵も思わずに、こちらにズカズカと入ってきますので、たまったものではありません。
「知の枠組み」を脱する難しさ
これは、(「思想家」ではありますが、断じて「哲学者」ではない)ミシェル・フーコーの言葉を使うと、各時代の「知の枠組み(エピステーメ)」の問題であり、哲学の実態を知らなくても、(ちょっと頭のいい)俗人は、この枠組みに見事なほどはまってしまう。そして、「永遠の真理などあるわけはない」とか「他人が何を考えているかわからない」とか、「同じ言葉でも時代や文化によって意味は多様です」という、いまや現代のエピステーメに完全にとらえられていながら、「そんなこと、あたりまえ」と思い込んでいる(前回のコメントで「あたりまえ」と言った人も同族でしょう)。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら