非哲学的な人が無視している「語義の個人差」

「明けましておめでとう」も万人共通ではない

「明けましておめでとうございます」は何の気なしに使うものですが…(写真:masa / PIXTA)
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みなさま、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします、とこう挨拶しましたが、かつて(そうですね、35年前にヨーロッパから帰ってきて、日本中にあふれる無意味な言葉の洪水に嫌気がさしていたころから最近まで)こういう言葉を使うのがとても嫌でした。

というのは、私はそのころすべて言葉は「正確に」に使うべきだと考えていましたから、「明けまして」と「おめでとう」との結びつきが、理由と帰結のようで、気持ちが悪かった。「明けました」そして他の何らかの理由で「おめでとう」というのならいいのですが、「明けました」からといってただちに「おめでとう」というわけでもあるまい、というわけです。

しかし5年くらい前からでしょうか、私はこの見解をラディカルに変えるようになった。それは、大部分の非哲学的な人(すなわち人類の99パーセント)が考えるように、「挨拶とは、正確な意味を伝えるための行為なのではなく、そう語ることによって円滑な人間関係を維持し確認するための行為なのだ」と考え直したわけではなく、むしろあらゆる言葉の意味は原則的に開かれている(自由に意味付与できる)という考えが、私のうちで強くなったからです。

哲学では言葉を2つに分ける

といっても、私は「1万円」という言葉を使いながら、これで「100万円」を意味するわけではなく、「東京」という言葉を使いながら、これで「ウィーン」を意味するわけではない(哲学ではこういう言葉を「記述語」といいます)。もちろん、私は頑張ればこう意味付与できますが、他者とのコミュニケーションは頓挫しますし、こうすることに何の利点もない。

ところが、不思議なことに(?)、「幸福」や「綺麗」や「まずい」や「醜悪」などの言葉(哲学ではこういう言葉を「評価語」といいます)の場合は、それに各人勝手に個人的意味を添えることができる。どういう状態が幸福かは各人で異なっていいし、何がうまいかまずいかも各人各様であることが許されるのです。

「幸福」という同じ言葉を使うのだから、何か1つの共通の「心の状態」があるはずだ、ということだって単なる推測に留まる。言葉を超えて各人の心の状態を比較することは原理的にできないはずだからです。

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