閑話休題。
以上すべてを見通して、ニーチェは、さすが大哲学者だけあって、「およそ、生とは趣味や嗜好をめぐる争いなのだ」(『ツァラトゥストラ』)と断言している。人間のあいだで理解し合えると思い込めるのは、「趣味や嗜好」言いかえれば「感受性」の領域に入らない限りのことであって、ここに入った瞬間に、確かなものは何もなくなる。
じつは私の真横で「おいしい、おいしい」とおもちを食べている子どもの感受性さえ「まったく」わからないのであり、彼がどうしてこんな漠然とした言葉(「おいしい」)を学ぶことができたかすらまったくわからない。しかし、あたかもわかっているつもりになって、じつは強者が弱者を、マジョリティがマイノリティを抑え込んで「正しい」趣味や嗜好を決定し、それから外れる者(外れる言葉を使う者)を危険視・異常視して、徹底的に迫害し排斥するというのが実情なのです。
哲学者の仕事は「目先のこと」を思索すること
このコラムは別に「哲学のすすめ」ではないのですが、「哲学」を何か高遠な理想を語るもの、常人には理解できない真理をめざすと思い込んでいるのなら(「哲学者ならもっとまともなことを言え」という的外れな「批判」があとを絶たないので、そう想像せざるをえない)、大間違いと言っておきましょう。哲学者の仕事は、人類の平和とか幸福とか救済を目指すというのも無限にウソに近い。
むしろ、哲学者の仕事は、誰でも(子どもでも)よく知っているけれど、なぜか微塵も反省しない「卑近な・目先のこと」を徹底的に思索することなのです。例えば、ここには「なぜいつも〈いま〉なのか」とか「なぜ、世界は〈ある〉のか」という問いとならんで「なぜ私は〈こう〉感じるのか」という問いも入ります。なぜなら、「私」の核心をなすのは、思考でも意志でもなく、「感受性」すなわち「私が〈いる〉」という得体のしれない感じなのですから。
かつて、大学(東大教養学科の「科哲」)で哲学を始めたころ、尊敬する大森荘蔵がいたのですが、授業中に「真理とは?」とか「善とは?」というような、大げさな問いを出すとひどく叱られた。あるいは「カントはこう言っている」とか「ヘーゲルはそう考えている」と発言すると、ムッとした顔で「あなたはどう考えているのか」と切りかえされた。いつも、ポール・ヴァレリーの言葉を引いて「真理は表層にあって深淵にはない」と主張していました。
それから約50年間、哲学にしがみついてきましたが、このすべては「正しい」と確信します。哲学塾には講師が10人ほどいて、私は、いまカント、ヘーゲル、キルケゴール、二ーチェ、ハイデガー、九鬼周造を読んでいますが、どんな難解な古典を読んでも、塾生が「からだの底から具体的にわかる」まで、すなわち「そうひしひしと感じる」までは「わかった」とは言わせない。
というわけで、あらためて(驚くほど多様でしかも絶えず変化する私固有の意味を込めて)、みなさま、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
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