こういう問いを小賢しい塾生が発するたびに私は注意しますが、というのも、「素人さん」ほど、「理性的に考えればすべての真理を解明できるはずだ」とか「1つの普遍的善があるはずだ」とか「世界には究極目的があるはずだ」という発言をすることは絶対ないからです。しかし、これらは、200年前のカントの時代にはごくごく普通の人がもっていた信仰であり、疑うことはなかった。
哲学塾において教えるのが一番難しいのは、デカルトやカントやヘーゲルの文章を理解することではなく、彼らが絶対に疑おうとしなかった知の枠組みの「うち」で動いていたこと。デカルトからヘーゲルまでは、大まかに言って、「理性」に対する絶対的信仰があり、その「理性主義」という共通の土俵から「そと」に出ることなしに、哲学者たちはしのぎを削っていたのです。
正確に言いかえると、天才的哲学者たちは無謀にも1歩だけその「そと」に出ようとしたがゆえに、歴史に残っている。知っていますか? デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」などという「暴言」を吐き、(神ではなく)人間的自我を原理としたために、危うく火あぶりになるところであり、カントは、理性を「批判」したために、『純粋理性批判』は19世紀には禁書になったのですよ。
ですから、素人さんに、神には概念によってではなくひたすら信仰によって到達できるというキルケゴールの考えを教えるのはさほど難しくないのですが、概念によって神をも含むすべてのことを一通りの仕方で語れる、という(キルケゴールが批判した)へーゲルの理性主義を理解してもらうのはきわめて難しく、「神の死」によりもはやいかなる絶対的価値もない、というニーチェのニヒリズムを教えるのは簡単なのですが、彼がそれによって狂気に陥った、ということをわからせるのは大変なこと。言葉の意味はその使用法であるというヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を理解させるのはそれほど難しくないのですが、言葉には一義的な正しい意味があるという伝統的見解を伝えるのは至難の業です。
奇妙な「逆転現象」
いいでしょうか、前にも言ったように思いますが、世界中の大学の(わが国を含む欧米系の)哲学科では、ここ100年のあいだ、猛烈な理性主義批判が燃え盛っている。みなが、理性に対する批判に没頭し、わずかにも理性を信頼するなどという「軽口を叩こう」ものなら、コテンコテンにやっつけられる。みな、獲物を捕らえた猛獣のように、とうとうと普遍的真理などない、普遍的価値などない、ことを情熱的に力説したあとで、「理性信仰は捨てろ!」という恐ろしい魔女裁判が進行しているのです。
そして、巷では依然として俗人たちは「理性」や「哲学」を美化し、「もっと理性的になったらどうだ」とか「彼は、理性を失ったように怒鳴り出した」とか「やはり、どの分野でも哲学が必要ですね」とかヌケヌケと語る「理性信仰」は滅んでいない。
こうして、現代の(日本を含む)欧米型社会では、哲学者だけが理性を信じることがなく、他のすべての人(俗人)が理性を信じている、という奇妙な「逆転現象」が生じているのですが、これを俗人のみなさんにお伝えすることに義務と喜びを感じますので、この連載をしばらく続けようと思います。
1つだけ蛇足を。私は20年以上も前から(『哲学の教科書』〈講談社学術文庫〉)、意図的に「ですます調」と「である調」や「だ調」を混ぜこぜにして使うことにしている。「ですます調」を使うのは、は読者に語りかけるという姿勢が出るからですが、あまりこれを連発すると文章末尾の「締まり」がなくなってしまう。そこで適度に「~だ」とか「~している」とか「とてもいい」とか「~と思う」という調子を混ぜて「変調」するのです。私だけだと思ったら、円地文子、曽野綾子、遠山一行などの玄人の文章にこの「技」を見つけて嬉しく思った次第ですので、今後もこの「技」を続行しようと思います。
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