五輪報道が万年「ウルトラ単純構図」の奇妙 なぜ誰もコーチや親への「恨み節」を語らない

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ここには、2重のフィルターが仕掛けられていて、第1に、ごく自然に、各選手がそう(少なくとも公に)語ることをみずからに禁じていること、そして第2に、テレビという報道機関が、不穏な発言を摘み取って、こうした非現実的世界を仕立てあげていること、そうに違いありません。

さらにテレビ報道に違和感があるのは、たとえば舛添問題では、これでもかこれでもかと政治家(舛添さん)の「悪」を暴き立て、ほじくり回すかと思うと、リオ・オリンピックでは、これでもかこれでもかと各選手の「善」を喧伝する。舛添さんは悪魔ではなく、オリンピック選手は天使ではないのですから、そんなに白黒がはっきりしているはずがない。

それにもかかわらず、テレビ報道はなるべく白黒をはっきりさせた感動的なドラマを伝えようとし、それを一般国民が後押ししている、というウルトラ単純構図にいささか吐き気を覚えます。

遠い世界の競技に「勇気」をもらうはずがない

最後に、最も大きな違和感を。多くの人が、オリンピック選手の活躍を見て「感動をありがとう」と発言するのはまだ理解可能ですが、「勇気をもらった」と言うのは、どうしても解せない。今回(だけではなく、いつもなのですが)、私はどの選手からも勇気をもらいませんでした。

もちろん、体操、レスリング、重量上げをはじめ、あれもこれも、自分ができるはずのない遠い世界の競技ですから「勇気」をもらうはずがないのですが、無邪気にこう言う人に向かって「どのような勇気か正確に言いなさい」と、ちょっと意地悪な質問をしたくなります。

そして、やはりある意味で悪趣味ですが、100メートルを9秒8で走ろうが、鉄棒から両脚をぴたりと寄せて着地しようが、柔道で1本をとろうが……、それらが血のにじむような努力の成果であっても、自分自身との不断の闘いであっても、私はそれほど「えらい」とは思わないのです。

身体障害者が、冷たい視線を浴びながら死ぬまでそのつらさに耐えて生きているほど「えらい」とは思わない。わが子が殺されて、その無念を抱えて生き続ける親ほど「えらい」とは思わない。逆に、ふとした過失でわが子を死なせてしまい、生きることが拷問であるほど打ちのめされ、それでも生きていく人ほど「えらい」とは思わない。

こういう人には、いかなるメダルも与えられず、栄誉も与えられませんが、彼(彼女)が生きているそのことだけで感動的ですし、心の底から尊敬しますし、自然に頭が下がります。

中島 義道 哲学者

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なかじま よしみち / Yoshimichi Nakajima

電気通信大学元教授・哲学塾カント主宰
1946年福岡県生まれ。77年東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士課程修了。83年ウィーン大学基礎総合学部哲学科修了、哲学博士。専門は時間論、自我論。2009年電気通信大学電気通信学部人間コミュニケーション学科教授を退官。現在は「哲学塾 カント」を主宰し、延べ650人が参加した。著書は『働くことがイヤな人のための本』『私の嫌いな10の人びと』『人生に生きる価値はない』(以上、新潮文庫)など約60冊を数える。

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