「教育困難校」問題の解決には何が必要なのか 社会保障費の増大や治安の悪化を防ぐために
卒業前のあるとき、「先生、相談があるんだけど……」といつになく真剣な表情でやってきた。最大手T社のディーラーと、彼が好きな外車の販売、修理を得意とする小さな自動車店と、どちらに就職すべきか迷っていると言う。もちろん、大手ディーラーのほうが給料も労働条件もよいが、もう片方の会社は社長が人間として魅力的で、面接の際に意気投合したというのだ。彼の中ではもう決断しているとその際は感じたのだが、後日やはり後者に就職したとの連絡が届いた。
数年後、彼の結婚式に招待された。教育困難校の卒業生は、結婚式を挙げないことも多いので、教員が招待されることはかなり珍しい。彼のお相手は、公立職業訓練校で知り合った、彼より偏差値の高い高校を卒業した女性だった。このとき、彼の両親と初めて話をした。彼の中学時代、親戚への資金援助の問題が原因で、両親は不仲だったそうだ。
敏感な彼は不安や不満を解消するためか、やんちゃな仲間とつるんで無免許でバイクを乗り回すなど、本当に手がつけられない状態だったそうだ。高校で見せていたのは、やり尽くした後、次を模索している表情だったのだと、筆者には納得できた。その後、両親の不和も収まったようで、この日は手を焼いた息子の結婚に両親とも涙を流していた。
一昨年には、それぞれの両親から多少の援助を受けたものの、まだ20代で一戸建ての家を建てている。毎年もらう年賀状の家族写真の中の彼は、自分の進む先を見極めた堅実で落ち着いた顔をしている。
彼にとって、高校での3年間は、あえて遠くの学校を選び、それまでの仲間から離れて中学時代の自分を「リセット」し、新しい行動を起こす前の「リハビリ」の時代だったのだろう。そして、受験という具体的な目標をきっかけに、必要なことを学びなおす、つまり「リメディアル」の場にもなったのだと思う。
もう1人、つながっている卒業生を紹介したい。
芯の強さも備えていた彼女は
彼女が小学6年生のときに両親が離婚した。調理師だった父は小さな飲食店を経営していたがうまくいかず、夫婦仲は悪化。妻は2人姉妹を置いて出奔(しゅっぽん)した。父は住宅兼用店舗を売却して借家に移り、警備の仕事に就いた。しかし、職場の人間関係に悩んでうつ病になり失業。その頃、一家は同居する祖母の年金と生活保護で暮らしていた。
家庭環境が慌ただしく変わる中で中学時代を過ごした彼女が、教育困難校に入学することになったのは仕方のないことだったのだろう。当時の彼女は、地味な眼鏡をかけた細身で表情の乏しい生徒だった。言われたことはしっかりやるが、自分から話したり行動したりすることはほとんどない。学力はやはり低く、部活動も経済的理由で加入できなかった。けれども、3年間、無欠席、無遅刻、無早退で過ごす芯の強さも備えていた。
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