「舌先三寸」に負けた屈辱
MIT航空宇宙工学科の大学院に入学した直後、若かった僕は周囲のアメリカ人学生たちを「バカ」だと思った。数学ができない。物理ができない。もちろん、「できない」とは言いすぎだし、とんでもない天才も少なからずいるけれども、東大航空宇宙工学科とMIT航空宇宙工学科の平均的な数理的能力を比べれば、前者のほうが確実に高い。
しかも日本の理工系学生は学部4年次で研究室に配属され、研究をし、卒業論文を書くが、アメリカの理系学生の多くは授業だけ受けて大学を卒業し大学院に来る。だから平均的にはアメリカの理系学生たちはモノづくりの経験に乏しく、手先も不器用なことこの上ない。
では、アメリカの理系学生たちは何が得意なのか。2つある。第一に、しゃべること。とにかく弁が立つ。決してうそはつかないけれども、10のことを20にも30にも膨らませるのがうまい。第二に、書くこと。雑多な思考をきれいなストーリーにまとめて説得力を持たせるのがうまい。本稿ではこの話す力と書く力をまとめて「国語力」と呼ぶことにしよう。
では、数理的能力に勝る僕と、国語力に勝るアメリカ人学生のどちらがMITの先生に評価されたか。明らかに後者だった。
前々回の記事に書いたとおり、アメリカの大学院では学生が研究室に自動的に配属されないため、生徒が先生に自分の能力を売り込み、雇ってもらわなくてはいけない。そして前回の記事で書いたように、僕はなかなか雇ってくれる先生を見つけられなかった。
そんな僕を尻目に、アメリカ人の同級生たちは首尾よく雇い主を見つけていった。僕と同じ研究室を志望していたある学生がいた。彼は数学は大してできないクセにしゃべりばかりがうまいアメリカ人の典型のような学生で、僕は内心、彼を「舌先三寸」と見下していた。彼には勝てると思っていた。
ところが先生は彼を先に雇った。留学最初の半年はつらいことが山ほどあったが、このときほど悔しいことはなかった。
しかし、どうして数学も物理もプログラミングも電子回路設計もできる僕ではなく、「舌先三寸」の彼のほうが評価されたのだろうか。今ならその理由がよくわかる。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら