「国語力」を磨けば、日本の理系は世界で勝てる 「舌先三寸」のアメリカ人に負けて気づいたこと

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「舌先三寸」に負けて気づいた、価値観の違い

以下の図を見ていただきたい。これは異なる文化においていかに理系人材の能力が評価されるかを表した図だ。

日本と欧米は、当たり前だが異なる価値観を持っている。それらは真逆ではないが、図に示すように異なる方向を向いている。日本の矢印は数理的能力や手先の器用さに重きを置いている。欧米の矢印ももちろん数理的能力の成分を含んでいるが、同時に国語力にも重きを置いている。

そして、日本でも欧米でも、それぞれの価値観に沿った教育が行われる。だから留学前の僕の能力は、1枚目の図に示すように日本の価値観と同じ方向に伸びていた。同様にアメリカ人学生の能力は欧米の価値観と同じ方向へ向いている。

なぜ、僕は留学直後にアメリカ人学生を「バカ」だと見下していたか。他者の能力を自分の価値観で測っていたからだ。つまり、2枚目の図のように、僕はアメリカ人学生の能力が自分の価値観の方向へ落とす影(数学用語では正射影)を見て、それが自分の能力と比べて短いから、彼らのことを見下していたのだ。

では、なぜMITの先生は僕よりも「舌先三寸」のアメリカ人を先に雇ったのか。当たり前だが、アメリカでは人はアメリカの価値観で評価されるからだ。つまり、3枚目の図のように、先生は僕の能力が欧米の価値観の方向へ落とす影を見て、それがアメリカ人学生と比べて短いから、僕よりも彼を高く評価したのだ。

余談になるが、勉学に限らずあらゆる意味において、自分を「一番」だと思うとき、あるいは自分が他者より優れていると思うときには、多かれ少なかれ必ずこのメカニズムが働いている。たとえば日本ではよく「日本の技術力は世界一」と自画自賛するフレーズを聞く。しかし、同じフレーズを日本人以外の口から聞いたためしはただの一度もない。

もちろん、価値観に優劣はない。日本の価値観が間違っていて欧米のものが正しいとか、その逆だなどという論は無意味だ。だが、いくら文句を言おうと、この世界では多くの分野において欧米の価値観がいまだ支配的であることも、厳然たる事実なのである。

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