死にたい時、音楽は「逃げ道」になってくれる アブドゥーラ・イブラヒムを聴いてほしい
no music, no life という言葉を私はあまり信用していない。音楽がなくても人間は生きていくことは可能だ。しかし、音楽があるおかげで死ななくても済む、ということも、やはりどこかで信じている。
今回紹介したいアルバムは、ピアニスト、アブドゥーラ・イブラヒムが2008年に発表したソロピアノ・アルバム『SENZO』だ(彼の祖父の名「センゾー」に日本語の「先祖」をかけたタイトル。ジャケットにも漢字で小さく「先祖」と書かれている)
ピアニストである筆者が最も強い影響を受け、そして強い敬意を抱いているピアニストがこのアブドゥーラ・イブラヒムである。
個人的に強すぎる思い入れのあるピアニストであるから、かなりのえこひいきの情が挿し挟まるのはご容赦いただきたいが、彼のピアノを聴くたびに「ま、オレも生きていてもオッケー!」と、ちゃっかり自己肯定をする。それはアブドゥーラの音楽のスケールの大きさが、私の悩みなどまるで取るに足らない小さなものなのだと一笑に付し、「大丈夫だよ、生きてて。困ったらまたここにおいで」と私に逃げ道を確保してくれるからだ。
スケールの大きさ、ということで言えば、これほどにスケールの大きな音楽もそうそうない。そしてここまで美しい音楽もそうそうありえないと私は感じている。
若い頃から一貫して「アフリカ」をモチーフに
アフリカの大地、南アフリカ共和国で生まれたアブドゥーラは、若い頃から一貫して「アフリカ」をモチーフにして音楽を紡いできた。当初はダラー・ブランドの名前で活躍し(1970年代にアブドゥーラ・イブラヒムに改名)、1969年に発表した『African piano』で一気に世界を震撼させた。
アブドゥーラの音楽を初めて聴いた人々は、そのスケールの大きさに打ちのめされたという。左手で執拗に繰り返されるリズムの輪廻。そしてその上で縦横無尽に繰り広げられるどこまでも自由な右手のメロディ。そのコントラストが織り成す美しさは、まるでこの世そのものである。
ありがたいことに、とある活動を通して彼には何度か会う機会があった。アブドゥーラは私にそのコントラストをnature(自然)とhuman(人間)なのだと教えてくれた。だとすれば、アブドゥーラが奏でる音楽は、畢竟私たちが生きるこの世そのものなのである。
現在81歳になるアブドゥーラの音楽は、若い頃からの「アフリカ」をモチーフにしたそれと首尾一貫している。大雑把な言い方をしてしまえば、若い頃のアブドゥーラと、現在のアブドゥーラは同じことをずっと言い続けている。自身の音楽を通じて。
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