データや商品ではなく「変化した受講者」という人間そのものがサービスになる。なぜ似たような自己啓発ビジネスが誕生しては消え、そして現れていくのか。「デキない人を狙う自己啓発セミナーの正体」(4月5日配信)に続いて、その正体に迫っていきたい。
かつて筆者が自動車メーカーで働いていたころ、仲の良い設計者が退職すると教えてくれた。「ちょっと海外でもまわろうと思って」と彼は教えてくれた。いま思えば、自分探し系のあれである。
ただ、当時の私は、軽くショックを受けた。自動車メーカーの設計者とは、さまざまな法規制をかいくぐり、何重もの性能試験を通過し、定まらない社内要求を受け止め、重量やサイズ制約にがんじがらめになりながら、一つの部品をつくりあげる。その複雑怪奇な業務をこなしながら、彼は「どう生きるか」という単純な問いを考え続けていたのだ。
「やめたほうがいいんじゃない?」と否定する私は、彼への羨望を隠しきれずにいた。彼は「大丈夫だよ、300万円くらい貯金があるから、1年、いや2年くらいは大丈夫かもしれない」と自信をもって答えてくれた。その自信のありようが、さらに私を不安にさせた。私は願っていたのだと思う。ほんとうであれば、彼の眼差しのなかに、刹那と憂慮が発見されるはずだった。
彼がどうなったのかはわからない。
何をやっても”自由”な私たちゆえ
ところで、自己啓発が可能になるためには、当然ではあるものの、「自分で自分を変えられる」という前提がある。また、「自分で人生を決められる」ことも前提となる。すくなくとも、他者から与えられた作業だけをこなし、完全に決められたレールだけを歩くとすれば、自己啓発の余地はない。
親から職業を引き継ぎ、つべこべいわず、とにかく仕事をこなすことが求められ、それが当然だと思う時代であれば、自己啓発とは無縁だ。しかし、世襲がなくなり、食うだけならなんとかなり、何をやっても”自由”な私たちゆえに、逆説的に自己啓発が必要となる。
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