死にたい時、音楽は「逃げ道」になってくれる アブドゥーラ・イブラヒムを聴いてほしい

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それが仕事を始めたり家庭が出来たり、つまり具体的に「社会」に組み込まれ始めると、なかなかそこから逃げ出すことは難しいのだ、と気付いた。フランクに「いざとなりゃあ逃げりゃ良いっしょ!」と思っている時は、私自身がさほど「社会」に組み込まれていなかったのだ、ということがわかった。社会を構成する一員となり、様々な関係性の中にあるという事は、私に多くの喜びをもたらすと同時に、無責任に逃げ出して良いという自由を剥奪した。

或いはそれはヒトが人間になる過程の必然なのかも知れない。

いざとなったら逃げちゃえば良い、という選択肢を失った代わりに、人間は究極のリセットボタンとしての自殺を手に入れるのだろうか。または「自らで在る」という矜持を保つ為に、自殺を選ぶのだろうか。それは私にはわからない。私はまだ自殺をしたことがないし、当面の所する予定もない。

また、逃げ出した所で何も物事が好転しないというのも、ある程度は経験から推察することも出来る。

じゃーどうすっかなー、やっぱ死ぬしかねーかー、イヤだなー、こええなー、それもなんだかなー。そんな感じで自殺を葛藤するという感覚は、若い頃よりも今の方が理解度が高い。

期せずして音楽が逃げ道となることがある

仮に、全ての命に等しく生きる価値があり、この世は生きるに値するものなのだと仮定する。実際のところがどうなのだかはわからないが、私はやはりそうであればいいなと、一つの理想としてそう願っているフシがある。全ての命に等しく生きる価値があればいいな、この世は生きるに値するものだといいな、と。

その仮定にのっとって話を進めるならば、出来る限り自殺はしない方が良い。

「何のために生きるのか」という問いに対して、私は「念のため」という回答を用意している。生きていれば何かしらの良いことがあるかも知れない(ないかも知れない)。その時のために、念のために生きておいた方が良いではないか、と。

「死にたい」という欲求が人間の根源的な部分に根ざすものであり、それ自体を否定することは難しい。だとするならば、人間に必要なものは逃げ道である。先に述べたように、社会を構成する一員となってしまうと、全てを放り出して逃げる、ということは現実味を持たない。しかし、どこかに確実に逃げ道が必要になる。

そんな時に、期せずして音楽が逃げ道となることがある。音楽が、「まーなー、オマエみたいに下らねえ奴もそうそういねーけどさー、ま、良いって、生きてたって。取り立てて死ぬ必要もねーだろー」と赦してくれることがある。

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