私にとって、これら以上に重要で差し迫った問題はなく、これらを(答えはなくとも)ずっと考えていくのはとても健全であって、生きがいのあることだと確信しているのですが、どうも去って行った人にはそれが伝わらないようです。つまり、好意的に考えると、去って行った人が「哲学」に的外れな夢を抱いていたというより、彼らの「哲学」に対する期待と私の「哲学」に対する態度とが、互いに相容れなかったということでしょう。
ですから、私は「A」の講義の中で、何度も言っています。「人生に悩んでいる人がいて、それを解決するヒントを得たいなら、瀬戸内寂聴さんのところに、五木寛之さんのところに、あるいは香山リカさんのところに行った方がいいでしょう」と。これはホンネであって、私見では、哲学者は、宗教家やカウンセラー、精神科の医者ではなく、他人の悩みを解消することはできません。軽減することさえできない。
いや、できるけれど、それは薬を飲むことによってではなく、話を聞いてもらうことによってではなく、緻密な哲学言語を大量に膨大に体内に取り入れ、これによって身体を鍛えて、「私はいないかもしれない」とか「死は錯覚かもしれない」といった、もっと過酷な真実を知るという「荒療治」によってのみできる、ということです。
「哲学塾」に人生のすべてをかけてはならない
ですから、この訓練――プラトンは哲学を「死の訓練」と言いましたが、まさにそのとおり――には、時間と忍耐力と知力が必要であり、それよりもっと必要なのは、普通の人々が「あたりまえ」と思っていることを「あたりまえ」と思わないセンス、しかも、こういう自分は病気かもしれないと悩むのではなく、こういう自分こそ「健康だ」と確信するセンスとでも言いましょうか……なかなか伝えるのは難しい。
しかし、なんとなくの実感なのですが、「A」に1度、あるいは数度出て去って行く人のうちに、そんなに多くはないと思いますが、もう少し深刻な動機の人々もいるようです。
それは、以上の条件をある程度そなえていると自覚はしているのですが、さしあたり働かなければならないから、哲学に没頭する余裕はない。しかも、哲学塾に何年通っても、世間が認める「哲学者」になれるわけではない。といって、哲学科の大学院に入るだけの時間的・金銭的余裕はない……。こうしてもんもんとしているうちに、いつか哲学(塾)から離れていく。そういう人々です。
以上の(想像上の)不適合を、視点を変えて見ますと、「哲学塾」に参加するさいには「哲学塾」に人生のすべてをかけてはならない、ということが判明します。「哲学塾」に何もかも委ねてはならない。ここで哲学を学び、生き方を学び、その知識によって「哲学的作家」あるいは「哲学的評論家」になろうなどと考えてはならないのです。
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