新聞報道によれば、判決について鉄道会社の間では「認知症の人による事故の場合、事故の損害は鉄道会社の社会的責任に含めるべきだ」と、納得の声があったとのことである。これは非常に興味深く、同時に、良識ある見解であるように思われる。
とはいえ、これですべてが解決されたわけではない。少し問題を変えてみよう。たとえば、この認知症の男性が街を徘徊し、何の罪もない一般人を凶器で傷つけた場合はどうなるのか。この場合、両者間の立場に大きなギャップがないゆえに、扱いが難しくなる。「許されない危険の改善」という議論も出てこない。一方このようなケースで認知症患者の家族が何ら責任を問われないとしたら、これまた直感的に不条理を感じるだろう。
これは単なる試験問題ではなく、これからの社会で実際に起こりうる問題である。そういった事象に普段から思いを馳せ、自分なりに考えを深められる学生こそ、将来の医者候補として、大学に嘱望されているのである。
本質論からの考察を放棄してはいけない
ところで、今回取り上げた問題に「保険に加入していれば、どちらが損害を負担するにせよ、損害を担保できる」と答えた学生がいた。確かに、この仕組みならば発生した損害の引受先がひとまずは存在することになる。
しかし、この回答は社会の動向や、それを踏まえた上で個人と社会のあり方を考える視点が希薄になりかねない。素晴らしいシステムに寄りかかるだけでは、本質的な解決にはならない。
また、生じるリスクを社会全体でどう負うべきかの議論を後退させかねないと、私は思う。本質論からの考察を放棄せず追求するならば、われわれはカンカンガクガク、望ましい社会のあり方について議論を重ねるべきなのかもしれない。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら