この類の問題を、もう少し本質的に考察してみたい。まず述べておきたいのは、この種の「限界事例」が入試で問われた場合、返答として何を求められているのか。それは新聞が述べている知識レベルの返答ではなく、目の前にある事象を本質的に考察する姿勢を貫いた末の返答なのである。
これをやってのけるためには、普段から考える習慣を築くことが必要だ。アプローチの仕方は、まとめると以下の姿勢となろう。
①新聞の論評などは参考程度にし、問題の本質を自分の頭で考えてみる。
②些末な事柄に着目するのでなく、大きな枠組みで対象を考察してみる。
③価値や利益が対立している場合、その事柄や当事者のそれぞれの利益を調整し、妥当な結論を導く。
このような思考回路で今回の事案に接してみると、まずそもそもとして、巨大な組織と小さな家族が対立するこの図式はどうなのか、ということを直感するはずだ。対峙する両者のバランスが悪すぎるのである。
その危険は「許されるレベル」に収まっているか
そもそも電車は、鉄でできた塊が猛スピードで走るという、恐ろしいものである。だがもちろん、これについては自動車などと同様、「許された危険」という法理が適用され、われわれの社会の中で正当化されている。平たく言えば、危険を伴う行為について、その社会的利便性(通勤、通学など人の移動、物の輸送など)を理由に、望ましくない結果(事故など)が発生した場合にも一定の範囲で許容される、という理屈だ。
これは「すべての危険を禁止すれば鉄道営業も禁止され、社会生活は停止してしまう。また、経済活動も停止してしまう」(ハンス・ヴェルツェル)という主張につながる。私も基本的に、この説を支持する。
しかし、それが許されるのは、その危険が「許されるレベル」にとどまっているからで、「許されないレベル」の危険が生じうる場合には、話が変わってくるはずだ。そして、絶えず社会が変容し続ける中で、「許されるレベル」と「許されないレベル」の線引きも、当然変容する。
話を元に戻そう。少し目を離したすきに認知症患者が駅のホームから線路に降りる、あるいは、踏切にフラフラと入る、という状況が生じうる社会であれば、従来は「許されていた危険」が、対認知症患者との関係で言えば、「許されない危険」に変容していると言えないだろうか。こうなってくれば、どのような対策ができるのか、われわれは知恵を出し合わねばならない。
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