米国にきて以来、メジャーの試合を観戦することはあっても自分でプレーすることはなかったから、久々に球場で野球を身近に感じて気持ちが盛り上がったのだろう。野球経験者と知った監督から「バッティングピッチャーとブルペンキャッチャーをやってくれないか」と頼まれると、トレーナーの見習いをしながらも、快諾した。裏方とはいえ久しぶりの野球が楽しくて仕方なかった植松は、毎日全力でひとり三役を務めた。
学期ごとに配属先が変わるのが学部のルールだったから、野球部で過ごした春学期が終わった後、植松は水泳部に配属されたが水泳の練習がない日は野球部に顔を出した。
その姿勢が、監督の心をとらえた。
通常、同じスポーツに2度配属されることはないのだが、監督が担当者と交渉して、次の春学期にまた野球部に配属されたのだ。ボールを投げて、受けて、選手を診る。それが植松の新たな日常となった。
ひとり三役でつかみ取った契約
野球部での2度目の春学期を終えて、迎えた夏のオフシーズン。植松はマイナーリーグのチームのリハビリ施設でインターンをしようと考えていたが、そこでは滞在費も食費も自腹という話を聞いた監督が、植松に待ったをかけた。
「俺がほかの仕事を見つけてやる」
監督に紹介されたのは、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のフレズノ・グリズリーズで、夏の2カ月間、ブルペンでボールを受けるという仕事だった。
留学生ということもあり、結局給料はもらえなかったが、結果的にこの夏の経験が植松の将来に大きく影響することになる。
「フレズノでも、バッティングピッチャーとブルペンキャッチャーをやらせてもらいました。キャッチングもバッティング練習で投げるのも好きだったので、本当に楽しくて働いている気がしなかったですね。毎日、早く球場に行きたいと思っていました」
次第に「これを仕事にしたい」と思うようになっていた植松は、どうにかしてチームの監督やコーチ陣に自分の存在を認めてもらいその後につなげるために自ら動いた。
「マイナーリーグは1チームにひとりしかトレーナーがいないのです。それで、自分はトレーナーの勉強をしていると話をしたら、手伝いたかったら手伝っていいよと言われたので、バッティングピッチャー、ブルペンキャッチャーと掛け持ちでやり始めました」
大学と同じように、このひとり三役作戦が効いた。マイナーリーグは資金が潤沢ではないから、植松のように手抜きをせず、器用に複数の役割をこなす人間は重宝される。
夏が終わり、大学に戻った植松にジャイアンツから連絡があったのは年が明けた頃。マイナーリーグのブルペンキャッチャー兼バッティングピッチャーとして、新シーズンからフレズノに加わってほしいという正式なオファーだった。
こうして2007年4月、植松はフレズノの一員となる。夢のような世界に繋がる階段に足を掛けた瞬間だった。
(撮影:尾形文繁)
後編は31日に配信します
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