マイナーリーグの生活は、華やかでない。フレズノはサンフランシスコ・ジャイアンツ直下のAAAのチームだったため、さすがに長距離バスで移動するようなことはなかったそうだが、それでもハードな日々だった。
たとえば、つねにチャーター機を利用するメジャーと違い、フレズノでは一般機での移動だったため、一般客と同じようにチェックインをして、エコノミー席に座る。しかも、マイナーの試合はほとんどナイトゲームで、試合が終わった後に飛ぶ便がないため、ホテルで朝4時、5時まで過ごして、朝いちばんの便に乗って、次の試合がある町に移動。到着した日の夜に試合をする、というスケジュールがシーズンの間、ずっと続くのだ。ホテルでは選手とふたり部屋で、リラックスして過ごせるような雰囲気ではないし、給料も安い。
日本の高校野球で鍛えられた植松でも「きつかった」と漏らす厳しい毎日だったが、時間が経つにつれて、植松のメンタルは選手と同じようにハングリーになっていた。
「いつかメジャーに上がってやる」
まさかのオールスター戦参加
植松は、ボールを投げて、受けて、トレーナーのサポートもするという三役を、がむしゃらにこなしていた。その献身が期せずして報われたのが、2年目の夏だった。
メジャーのオールスター戦の期間、マイナーのチームは休みになる。植松は日本から訪ねて来た父親と過ごす予定だったがある日、当時のジャイアンツ副GMボビー・エバンス氏(現GM)から連絡が入った。
「サンフランシスコでオールスターがあるから、ジャイアンツからスタッフを出すことになったんだ。アメリカンリーグのブルペンキャッチャーなんだけど、やるか?」
イエス! と即答した植松は、父親を車に乗せてサンフランシスコに向かった。
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