自信に満ちた人が持つ「本物の知性」の正体 「奴隷的生き方」から脱するヒント
世の中では、科学や技術は文化とは無関係のように考えられている。確かに自動車やiPhoneが世界中どこにでも使われているように、科学技術の成果は文化とは無関係に広まる。しかし、思想や宗教という抽象的なものを比較するのではなく、具体的な物を対象として複数の文化圏にまたがって科学と技術の発展、つまり科学史や技術史を調べて、横断的に比較するとそれぞれの文化のコアの特徴がくっきりと浮かびあがってくる。
一例として水を撒く道具の、じょうろ(西洋)と柄杓(日本)を挙げておきたい。じょうろは、誰でも上手に水を撒けるよう「道具に技巧がビルトイン」されている。それに対し、柄杓は最初から上手に水を撒くことは難しい。子どもならそこら辺りをびしょびしょにしてしまうだろう。
それは、道具に技巧がビルトインされていないからである。柄杓で上手に水が撒けるようになるには、個人個人が腕を磨いて技巧を修得しないといけない。「腕を磨く」意識が日本人に強いのは普段からこういった道具に囲まれてきた結果であろう。私が「物(ブツ)ベース」での比較を強調するのは、こういった身近な例から文化の根源的な差を知ることができるからである。
昨今のグローバル化で、日本ではまたぞろ異様な英語熱の盛り上がりを見せている。昇進、昇格の条件にTOEICの点数が要求されるので、うんざりしながらも英語のドリルに取り組んでいる人も多いだろう。しかし、そもそも普段使う機会のない英語をなぜ学ばないといけないのだろうか? この点がクリアになっていないため、到達目標が不明のまま、ずるずると時間だけかかって一向英語が上達しないということになっていないだろうか?
日本の社会人に対する英語教育の「欠陥」は、次の3点と考える。
ビジネス上で英語を必要とする人も、必要としない人も、言語を単なるコミュニケーションツールとしてとらえるのではなく、知的刺激ととらえてほしい。さらに、難しいとの思い込みを捨て、英語のベースとなっている古典語(古典ギリシャ語、ラテン語)を「草野球を楽しむ」ように取り組んでみてはいかがだろうか?
英語と日本語の二項対立の世界にいる時には考えられなかったような、言語そのものの広がり、言語を通して分かる文化のコアの重要性、にきっと目が開かれる思いがするであろう。
グローバル社会で活躍したい人、リーダーとしての確固とした自信を持ちたい人、自分の生き方を真剣に考えたい人、日本や世界の文化の本質を知りたい人、そういった人にこそ「リベラルアーツ」を追求してほしい。「本物の知性の探究」、これこそが、グローバル時代に必要なリベラルアーツ精神であると私は考える。
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