なぜ日本の「リベラル」の質は劣化したのか 「21世紀の自由論」が訴えたかったこと

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当事者性、漂流性とも獲得できる社会を展望

日本のリベラルには政治哲学の深みがなく、「政治を任せられない」と手厳しい

最近の日本の思想状況がいかに貧困であるかをえぐり出した好著である。

とくに「リベラル」と呼ばれる人たちは今、政治勢力として完全に崩壊しようとしている。原発問題、特定秘密保護法案、集団的自衛権、憲法改正論、アベノミクス、等々に「反権力」の立場を示してきたリベラル派の知識人だが、彼らには政治哲学の深みがない。「立ち位置」ばかりで思想を欠いたリベラル派に政治を任せても、まともな政治運営を期待できないのでは?というのが本書の疑念だ。

そもそも日本のリベラルは、欧米のそれとずいぶん異なる。日本の場合、一国平和主義で、IS(イスラム国)には寛容。対して欧米のリベラルは、しばしば戦争に加担し、テロリズムを批判してきた。日本のリベラルはアベノミクスに反対だが、ケインズ政策を支持する欧米のリベラルはこれを歓迎している。日本のリベラルは、少数派の立場に憑依したり、外部の視点からゼロリスク社会を求めたりするなど、普遍や理想を追い求めすぎているのではないか。そのような理想は欧米ではすでに崩壊したのであって、自由な選択のみを追い求める主張はやがて行き詰まると論じる。

では、リベラルに代わるコミュニタリアンの共同体思想はどうか。それも息苦しいのであり、参加できない他者を排除してしまう点が問題だ。第三の選択肢として本書が提示するのは、「正しさ」の追求ではなく状況分析に徹したリアリズム。白黒つけず、グレーなものをそのまま制御せよ、という発想だ。ただ「理では負けても情で救ってもらった」といえるような優しい政策も必要という。開放的で脱中心的な情報ネットワーク共同体を築き、各人が「当事者性」と「漂流性」の双方を獲得できるような社会を展望している。

著者
佐々木俊尚(ささき・としなお)
作家、ジャーナリスト。1961年兵庫県生まれ。毎日新聞社で12年余り事件記者を務めた後、『月刊アスキー』編集部を経て、独立。ITと社会の相互作用と変容、インターネットとリアル社会の衝突と融合を主なテーマとして執筆・講演活動を行う。

 

橋本 努 北海道大学大学院教授
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