広い視野であり方を説く優れた近・現代史論
内外の外交史、政治史を広い視野によって詳細に点検しつつ、歴史認識のありようを説く優れた近・現代史論である。
後発国として、国際社会との協調や理解(国際法の遵守)を通して政策決定をしてきた日清・日露の戦争期から第1次世界大戦頃までの日本と、その後の夜郎自大な非(反)国際主義により「アジア太平洋戦争」へと突き進んでいった歩みを振り返りながら、著者は現代日本の方向を問いかけている。
すでに多くの論者によって、日本をアジア太平洋戦争へと導いた軍部や政治家たちは、国益ではなく自分の属する組織の利害を優先したことが指摘されてきた。彼らには自らが戦争を決断したという責任感・自覚が欠如していた。著者に言わせればその原因の一つは、国際社会の潮流を的確に理解することなく自己の利益や正義を独善的に振り回していたところにある。
むろん本書が指摘するように、日本が諸外国から「表裏の多い不信の国」とみなされていることを懸念する牧野伸顕のような人物もいた。しかしそれはわずかだった。日本は朝鮮半島や台湾を支配しながら欧米には人種平等を主張した。「日本は自ら実行していない」ことを「他にだけ実行を迫った」(石橋湛山)のだった。
多くの非戦闘員を殺戮する戦略爆撃を含む戦争を拡大させながら、「アジア民族の解放」などといっていた。それは、国際社会の動きや日本への評価から眼をそらすことによって支えられた行動だった。もちろん動乱の渦中にあって、広い視野で客観的にものごとを理解するのは難しい。本書が語る、ウィンストン・チャーチルのようなリーダーは例外だろう。著者は指摘する。「いかなる諸国」も「広い視野から国際主義の精神の重要性を理解するのは容易ではない」。しかし、平時で落ち着いて考えることが可能な中で、同じ性質の過ちを繰り返すのは賢明ではなかろう。アジア太平洋戦争への道には国際社会との大きな認識のズレがあった。
今はどうだろう。自国以外の安全保障に関心を示さず、国連憲章や不戦条約も参照せず「平和」を唱えることは、やはり国際社会との大きなズレである。村山談話が典型だが、主観的な善意がそのままよい結果をもたらすほど世界は単純ではない。本書の指摘はとても重要だ。
著者は次の言葉を引用する。「意識的にせよ、無意識的にせよ、われわれは過去に関する知識を自分たちの現在の目的に利用したいと思っている」(リチャード・エヴァンズ)。国家も個人もこの言葉の前で立ち止まったほうがよい。もちろん日本に限らない。
細谷雄一(ほそや・ゆういち)
慶応義塾大学法学部教授。専門は国際政治史、英国外交史。1971年千葉県生まれ。立教大学法学部を卒業。英バーミンガム大学大学院国際関係学修士号取得。慶大大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。博士(法学)。北海道大学専任講師などを経る。
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