自信に満ちた人が持つ「本物の知性」の正体 「奴隷的生き方」から脱するヒント
次に、リベラルアーツの「アーツ」の部分を説明しよう。
元来「アーツ」とはラテン語で「術(わざ)」を意味する。現在、アーツと言えば「芸術」という訳語が当てられているが、本来は、手先を使う作業が全てアーツであった。ちなみに「アーツ」をギリシャ語では「テクネー」と言う。
リベラルアーツを学ぶうえでの3つのポイント
いずれにしろ、頭だけで考えるのではなく、手足を使って実物に即して物事を理解するのが「リベラルアーツ」を修得する方法論である。ここでは、次の3つの取り組みを提案する。
学校で習う歴史とは、年号や人の名前をひたすら暗記するだけの索漠としたものだったとの思いを抱いている人は多いだろう。かくいう私もその一人だった。まるで、遠くから小さいテレビ画面を見ているようなぼやけたイメージしか残らなかった。登場人物はどれもこれもロウ人形のように生気なく、事件の名前や年号とともに次から次へと檀上に登場しては消え去っていった。
高校卒業と同時に暗記モノの歴史にいじめられることがなくなってせいせいした。その後、本物の歴史書を読むようになって、ようやくなぜ高校の歴史がおもしろくなかったのかが分かった。それは、政治的事件が中心であったからだ。
当然のことながら、歴史の主体は人物、それもロウ人形ではなく、血肉ある人間なのだ。人物を活き活きと描いた歴史書の詳しい紹介は拙著『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社)に譲るが、西洋ではプルタルコスの『英雄伝』、東洋では司馬遷の『史記』を挙げておきたい。
これら、本物の歴史書が「熟した果実から絞ったみずみずしいジュース」とすれば、高校の歴史の教科書(や世にいう歴史書)は「ジュースの絞りカス」のようなものだ。
本物の歴史書は2000年もの時を飛び越えて、当時の生活や人々の息づかいまで生々しくバーチャル体験させてくれる。そのうえ、読後感も、あたかも人物や事物を手で触ったかのごとく、「手ざわり感」をもって感得することができる。こういうものが本物の歴史書であり、人物伝であるのだ。歴史書を読むことが退屈なのではなく、現代のつまらない歴史書を読むことが退屈なのだ。
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