「真珠湾攻撃」の成功で一夜にして英雄となるも…山本五十六が南方の最前線で迎えた"壮絶すぎる最期"
「い号作戦」の「い」は、いろはの「い」を表す。これから順番に攻撃をしていこうという意思が表れた作戦名であった。
4月18日、五十六は次の作戦に向かってラバウルからブーゲンビル島を経由して最前線のバラレ島の激励視察に、最後の飛行に飛び立った。
激戦の最前線に身をさらす「最高司令長官」
「宇垣さん、いくら何でもむちゃじゃありませんか。司令部をラバウルに移すだけでも相当議論を重ねたじゃないですか。さらにその先まで行くのは困難です。長官が無事に帰れるかどうか保証できません」
「コロンバンガラやムンダに至っては米軍の艦砲射撃すら受けている地域です。もし長官が戦死されたら、海軍の指揮はいったい誰が執るのですか」
宇垣とは宇垣纏(まとめ)連合艦隊参謀長のこと、宇垣に詰め寄っているのは現地部隊の司令長官や参謀たちである。彼らが詰め寄っているのは、連合艦隊の最高司令長官が激戦の最前線に身をさらすことの危険を訴えるためである。
1943(昭和18)年4月時点のラバウルは、日米の最前線から600kmほど離れている。しかし、ムンダまでは100kmほどしかない。
そこに連合艦隊の最高司令長官が進出する。現地で戦う将兵にとっては、戦意を奮い立たせる行為だが、危険な賭けであった。それでも五十六は向かった。
五十六は、この戦いに懸けていた。ソロモン諸島で、なんとか米軍を食い止めたかった。これ以上、日本に向かってくる米軍を進めさせたくなかった。そのためには「い号作戦」から続く戦いに勝利したかったし、勝利できなくても米軍を足止めできれば、次の勝機が見つかるかもしれない。
日をさかのぼること、4月3日、五十六はラバウルに到着した。その時の五十六は、はた目から見ても憔悴しているようであった。五十六は会食中、黙々と食事を口に運んでいたが、瞳はどんより曇り、明らかに顔に疲れの色が見えた。
五十六は追いつめられていた。生気を失っていたのかもしれない。
米軍は4月18日に、五十六がラバウルからバラレ島へ出発することをわかっていた。すでに海軍の暗号を解読していたのだ。護衛の戦闘機が6機であることもわかっていた。


















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