「真珠湾攻撃」の成功で一夜にして英雄となるも…山本五十六が南方の最前線で迎えた"壮絶すぎる最期"

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それがないため、一方的な快い情報だけを信じてしまう民族性をつくり出されてしまったのだろう。

だが、日本人としては珍しく、五十六は物事を批判的に見ることのできる能力があった。朝敵とされた長岡藩の出身だったおかげかもしれない。海軍中央や日本政府が絶対的に正しいとは思わない地域だった。

そのような意味では恵まれていたかもしれない。しかし、日本人の大多数は政府や軍や、それに乗っかったメディアが流す情報にだまされてしまっていた。

太平洋戦争のさなか、戦死した山本五十六のために、長岡に山本神社を造ろうという話が持ち上がった。しかし、五十六をよく知る人たちが猛反対した。理由は、

「神様なんかにされたら、一番怒るのは山本だ」

長岡の人たちはよくわかっていた。長岡の人たちだからこそ、わかったのかもしれない。

五十六は神様などになりたかったのではない。日本をアメリカに匹敵するほどの国にしたかっただけなのだ。世界に誇れる国にしたかったのだ。そのためなら、命も名誉も捨てていいと思っていた。神様など、もってのほかだった。

ほとんど戦果の上がらなかった「い号作戦」

山本五十六は、ソロモン諸島の奪還に向けて「い号作戦」の直接の指揮にあたった。

ガダルカナル島を米軍に奪われ、ソロモン諸島の各島を日本軍は失いつつあった。日本軍は、1943(昭和18)年4月7日から14日にかけて、ラバウル島からガダルカナル島やニューギニア島のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に向けて第11航空戦隊と第三艦隊の艦載機、約400機で攻撃をかけた。

しかし、ほとんど戦果は上がらなかった。相手は約250機の航空機であったが、撃ち落とせたのは25機。日本軍の損害が61機だったから、日本軍の方が、損失が大きい。

さらに、船舶に関しては駆逐艦1隻のほか、コルベット艦など計4隻を撃沈させたが、米軍に致命的な損失を与えるものではなかった。

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