日本本土周辺の各地では終戦までに凄惨な地上戦が繰り広げられた。今の私たちは教訓として何を導き出せるのかを前後編で考える(前編)。
太平洋戦争の降伏を国民に知らせる、「玉音」放送が行われた8月15日には毎年、戦没者を追悼し平和を祈念する式典が行われる。これは日本本土だけの話だ。沖縄では、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる6月23日に毎年、「沖縄全戦没者追悼式」が行われ、沖縄県知事に加えて総理大臣や衆議院・参議院議長などが参列する。
沖縄県は条例で、6月23日を「慰霊の日」という休日として定めるほど重視している。逆に沖縄の8月15日は何もない。お盆の行事も旧暦に合わせて行うからだ。
他方、北海道稚内市では、毎年8月20日に「氷雪の門・九人の乙女の碑平和祈念祭」が行われる。アメリカ軍が長崎に原子爆弾を投下した8月9日、ソ連は対日参戦して同月15日以降も戦闘を継続。20日にソ連軍が上陸した日本領土(当時)の南樺太では、真岡郵便局の電話交換手をしていた若い女性職員9人が、青酸カリなどを服用して自決した。
住民を巻き込んだ旧日本軍の地上戦
このように1945年の終戦は同じ日本国内でも地域によって時期が異なり、その過程や経験もまったく違う。だが、終戦の過程を左右した各地の地上戦では、本土防衛のための日本軍の「捨て石」作戦と、民間人の根こそぎ動員・集団自決という共通のパターンが繰り返された。
とりわけ南洋戦、沖縄戦、日ソ戦という日本の終戦を決定づけた地上戦から、現代の我々はどのような教訓を導き出せるのか。いま戦争を考える上で歴史をどのようにいかせるのか。それを考察することが本稿の意図である。
第1次世界大戦に日英同盟を名目に参戦した日本は、ドイツ領の南洋諸島を軍事占領。大戦後、国連委任統治領という名の植民地にした南洋諸島に、南洋庁を設置する。
南洋庁と日本軍は、国策会社「南洋興発株式会社」の砂糖プランテーション経営を全面的に支援し、日本からの移民を労働者として呼び込んだ。中でも、第1次世界大戦後の砂糖価格の暴落で経済的に追いつめられた沖縄から、さとうきび農民が多数移住し、1943年時点で南洋諸島の日本人移民約10万人のうち、約6万人が沖縄出身者だったという。
1941年12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃してアメリカと開戦した5時間後、日本軍はアメリカ領グアムを侵略する。2日間にわたる爆撃後に上陸、島を占領した。南洋諸島の真ん中に位置するグアムは、日本の南洋統治上の不安要素だったからだ。
しかし、日本のグアム支配は短かった。日本の敗色が濃くなる1944年に入ると、日本軍の最高指揮機関である大本営が設定した「絶対国防圏」の要衝、南洋諸島にアメリカ軍が進攻。ヤルートなどマーシャル諸島を占領し、6月にはマリアナ諸島の攻略を開始する。サイパン、グアム、テニアンが次々と制圧された。
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