日本の捨て石として「辺境」が歩んだ共通の悲劇 太平洋戦争の地上戦から見る戦争の教訓(前編)

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第32軍は小学生から老人まで大量の住民を徴用し、強制接収した土地に飛行場を建設させた。しかし、米軍による大規模空襲で飛行場を破壊され、作り直す羽目になったあげく、作戦変更で飛行場を放棄。司令部のある首里とその周辺の丘陵地帯に主な兵力を集中させた。

というのも、当時、日本の植民地だった台湾に米軍が上陸する可能性があるとして、沖縄戦の前に主力部隊が台湾に引き抜かれ、第32軍は兵力不足から部隊を再配備する必要に迫られたからだ。これで、またも住民を徴用しての陣地構築が行われた。

召集令状なしの動員で学徒兵7割戦死

加えて、第32軍は現地において召集令状なしに、徴兵の対象年齢に達していない17歳未満や45歳以上の男子も含めた「防衛招集」を行う。「健児隊」「鉄血勤皇隊」「通信隊」などを結成させられた学徒兵は約2万2000人。その約7割が戦死したといわれている。15歳から19歳までの女子学徒、約500人も看護要員として戦場に動員され、約4割が戦死した。

防衛招集の目的は規則上、治安維持や警備のためとされていたが、第32軍は防衛招集した人々を戦闘員として扱い、夜間の米軍への斬り込み作戦の先頭に立たせたり、戦車に体当たりさせたりして自爆する特攻作戦に駆り出した。

なお、沖縄島や石垣島、奄美大島などに配備された「震洋」部隊では、モーターボートの設計の不備や輸送中の米軍による爆撃で爆発事故が続出し、特攻作戦の前に多くの予科練出身者・学徒兵が死亡した。狭いボートの中に燃料タンク、4トントラック用エンジン、そして爆薬が詰め込まれていたせいだ。その上、夜間にアメリカ艦船を集団で奇襲して体当たり攻撃をする作戦は、敵の艦船をほぼ発見できずに終わった。

首里の司令部が陥落すると、日本軍はアメリカ軍から逃げる一般住民に紛れて南部に撤退、戦闘を長引かせる。そのため、アメリカ軍は日本軍を追って南下しながら軍民無差別の攻撃を行う。

日本軍の戦没者数を月別に見ると、全体の7割弱が、5月から始まる首里の第1・第2防衛線の戦いで死亡。それに対して、住民の約半数が6月に亡くなっていることから、住民の犠牲が南部撤退後に集中していることがよく分かる。司令官の自決で組織的戦闘が終結した6月23日以降も、司令官が最期に「最後まで敢闘」するよう命じたため、9月7日まで残存部隊の抵抗が続き、5000人以上の住民が死んだ。

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