日本の捨て石として「辺境」が歩んだ共通の悲劇 太平洋戦争の地上戦から見る戦争の教訓(前編)

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日本軍は移民を軍務に徴用し、地上戦の道連れにした。1944年4月13日に閣議決定された「南洋群島戦時非常措置要綱(二)」には、「南洋群島在住民の総力を結集して直接戦力化し、軍と一体となりて皇土前線の防衛にあたらしめる」とある。

また、サイパン戦の直前、民間人の扱いをめぐって開いた会議の席上で、日本軍の中枢である陸軍軍務局長の佐藤賢了少将は、「女小供自発的意志において皇軍と共に戦い、生死苦楽を共にするなれば、誠に大和民族の気魂は世界及び歴史に示されること願わしい」(原文ママ)と述べている。

サイパンでは非戦闘員1万人が死亡

陸海軍の作戦の連携に失敗し、増派部隊の大半も輸送中にアメリカ軍の攻撃で沈められると、大本営はサイパン島放棄を決定したが、現地の日本軍に降伏を許さず、「玉砕」(全滅するまで戦うこと)を命じた。こうして、サイパンでは日本軍約4万人と非戦闘員約1万人が、戦死あるいは自決によって死亡した。

アメリカ軍の南洋戦の目的は、燃料補給なしに日本本土の主要都市を爆撃できる距離にある南洋諸島に、開発したばかりのB29爆撃機の発進基地を建設することにあった。焼夷弾による攻撃で10万人が死亡、100万人が負傷した1945年3月10日の東京大空襲は、サイパン、グアム、テニアンの3島から発進したB29によって実施される。同年8月6日に広島、8月9日に長崎へと原子爆弾を投下したB29も、テニアン島から発進した。

他方、1944年7月のサイパン陥落を受け、元帥海軍大将の伏見宮博恭王は、劣勢挽回を可能にする「特殊」兵器の開発を要望した。それに応えて提案されたのが、人間魚雷「回天」や、ベニヤ板製のモーターボート「震洋」などの特攻兵器だ。爆薬を抱いた兵士が戦車に体当たりする陸の特攻も、同時期に採用される。

沖縄戦で戦うアメリカ兵
沖縄戦で日本軍や住民がこもる壕(ガマ)に銃器を向けるアメリカ兵(写真:Getty Images)

太平洋戦争末期の1945年3月末にはアメリカ軍上陸とともに沖縄戦が始まった。沖縄戦におけるアメリカ軍の目的は、日本本土への空襲を強化し、続く本土上陸作戦を実施するために航空基地、兵站基地を確保することだった。

対する大本営は、沖縄戦を本土防衛のための時間稼ぎと考え、沖縄に配備した第32軍に持久戦を指示した。また、第32軍壊滅後にゲリラ戦を展開して米軍を沖縄に足止めするため、陸軍中野学校出身者を各地に潜伏させる。

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