やがて一九は武士を辞めて、筆一本で生きる道へと突き進んでいく。
寛政5(1793)年、30歳のときに江戸にわたった一九。
山東京伝と知り合って、翌年の正月には京伝作の黄表紙『初役金烏帽子魚(はつやくこがねのえぼしうお)』の挿絵を担当した。そこから縁が生まれたようで、秋には耕書堂の蔦屋重三郎のもとに身を寄せるようになる。
早々と蔦重にその才を認められたらしい。さらにその翌年にあたる寛政7(1795)年の正月には、『心学時計草』『新鋳小判』『奇妙頂礼胎錫杖』と一九は3点の黄表紙を刊行。京伝の作品はこの年に出なかったため、蔦重としても一九の活躍は有難かったことだろう。
この頃には「十返舎一九」の筆名を使っていた。由来は一九がかつて習っていた香道に関連している。香道とは、茶道、華道や能と同様に、室町時代に生まれた芸道の一つで、香木を焚いて楽しみ、判別するというもの。天下の名香として知られているのが「蘭奢待(らんじゃたい)」という香木で、別名「黄熟香(おうじゅくこう)」ともいう。
蘭奢待(黄熟香)は10回炊いても香りを失わないことから「十返しの香」とも呼ばれ、そこから「十返舎」という筆名が生まれたらしい。「一九」は幼名の「市九」に由来するという見方が強い。
書いて書いて書きまくったがヒットには恵まれず
化け物ネタを得意とした一九は、寛政8(1796)年にも、『化物小遣帳』『化物 年中行状記』『怪談筆始』の3点を蔦重のもとで刊行している。それだけではない。村田屋治郎兵衛・榎本屋吉兵衛・岩戸屋喜三郎・西宮新六といった版元とも仕事をした。この年には、蔦重のところで出した3冊以外に、13点も黄表紙を出しているのだから、すさまじい。
その後も、精力的に書いて書いて書きまくった一九だが、なかなかヒット作に恵まれなかった。それでもへこたれずに、毎年20作もの黄表紙を書き続けたところ、ついにミラクルヒットを飛ばすことになる。



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら