ときとして人生の最良の巡り合わせは、安定しているように見えた過去をいっそう精密に分析することからではなく、真新しい不確実な未来を、ときにはあてどなくであっても探索することから訪れる。
問題解決向けに用意された客観的な尺度を持つ閉鎖系では(たとえば、今年度における医療費の振り分け先を決定するといった場合は)、遠慮なくデータ分析に頼ればいい。
だが、人生における不確実性が避けられない領域では、それを安定した閉じた系の問題のように扱ってしまうと、悪くすれば惨事を招き、良くても、人生に畏敬の念をもたらしてくれる驚異の出来事から喜びが奪われてしまいかねない。
こうした教訓は、生産性と効率とコントロールに取り憑かれている文化では、無視されることがあまりにも多い。明確なアウトプット(私がいちばん嫌いなディストピア的な言葉で言うと、「成果物(デリバラブル)」)が何もないなら、意味がない、というわけだ。
無目的な思索の時間の価値
ところが探索には、思考を目的なく漂わせることも必要とされる。
今では無数の人が、無目的な思索は時間の無駄であり、目的に沿ったスケジュールから削るべき、くだらないものと見なしている。運転中も通勤途中も、ラジオやおしゃべりや軽いゲーム、音楽、ポッドキャストで埋め尽くさなければならない――静寂に浸ることなど、めったにない。
食料品店のレジに並んで待つ30秒の空白の時間にさえ、私たちの多くはスマートフォンを手に取る(こうした非難に対しては、私も同罪だが)。
近年のある研究では、痛みを伴う電気ショックを与える装置しかない部屋に、実験参加者を6〜11分間、独りきりにすると、多くの人は独りで考え事をして座っているよりも、自分に電気ショックを与えるほうを選んだ。10分足らずの間に190回、自分にショックを与えた男性もいた。
私たちが少しばかり主導権を手放し、もう少し自分を目的なく漂わせて探索させると、何が起こるだろうか?
私たちは知っている。明確な証拠もある。目的志向の行為をせずに、ゆっくりと無為に過ごす気晴らしの時間こそ、しばしば輝きのときとなるのだ。
こうした時間に私たちは、詩人のジョン・キーツがかつて「ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)」と呼んだ能力を経験して、「不確実性や不可解さや確信のなさにも平気で包まれていられる」。
そして、さまざまな悟りを得る。これは、確証済みの現象だ。
(翻訳:柴田裕之)
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