銀座「KK線」の廃止、首都高「八重洲線」の”10年間通行止め”が示す≪高速道路の世代交代≫。アナログ写真とともにその歴史を振り返る

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赤坂付近の谷町インターチェンジ
(写真:1967年9月16日、東洋経済写真部撮影)

赤坂付近の谷町インターチェンジは、首都高の都心における重要拠点であり、首都高速のランドマークともなっていると言える地点だが、60年代の空撮写真では、周辺に緑地や小さな家屋が目立つ。現在は赤坂アークヒルズや泉ガーデン、麻布台ヒルズや東京ミッドタウンなど、大規模開発や超高層建築が並び立つ地域になっている。

この谷町ジャンクションは、首都高速都心環状線と渋谷方面に至る3号線がつながる分岐点として1967年に竣工。

赤坂見附交差点付近
(写真:1967年9月16日、東洋経済写真部撮影)

そして、こちらは4号新宿線が皇居外堀沿いを走る赤坂見附交差点付近。

中央下の樹木の茂る場所は豊川稲荷。中央の建設中の高層ビルは鹿島建設の本社ビルだ。この頃はまだ赤坂プリンスホテルや、ホテルニューオータニにも、超高層の建物はなく、紀尾井町付近は緑に覆われ、かつてのお屋敷街の風情を偲ぶことができる。

未来都市のようにも見えた1960年代東京

東京都心で高速道路の建設が始まった1960年代。それは、メガロポリスの大動脈を象徴するインフラとして輝いて見えていたことが想像できる。

その時代の空撮写真を見ると、低層建築に覆われた都心を高速道路が蛇行する風景は未来都市のようでもあり、1972年のソビエト映画「惑星ソラリス」に、東京の首都高の風景が未来都市として映しだされたのは、それを証明する出来事のようにも思える。

約60年前に、当時の日本の技術と根性を全力結集して作られた首都東京の高速道路。その背景には高度経済成長という時代の勢いと、東京オリンピック大会実現という使命が存在していたが、今また、人々が日々経済活動を行う過密な都心の只中で、都心再開発と老朽化した高速道路の更新が進んでいる。

“あの頃”のような熱気と未来への希望は感じられないが、テレビ番組「プロジェクトX」で取り上げられてきたような、日本の技術と底力は未だ衰えていないのだと信じることはできそうだ。

連載
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鈴木 伸子 文筆家

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すずき のぶこ / Nobuko Suzuki

1964年生まれ。東京女子大学卒業後、都市出版『東京人』編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『中央線をゆく、大人の町歩き: 鉄道、地形、歴史、食』『地下鉄で「昭和」の街をゆく 大人の東京散歩』(ともに河出書房新社)『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』(リトル・モア)などがある。

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