銀座「KK線」の廃止、首都高「八重洲線」の”10年間通行止め”が示す≪高速道路の世代交代≫。アナログ写真とともにその歴史を振り返る

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数寄屋橋交差点付近
数寄屋橋交差点付近のKK線。写真右は中央区立泰明小学校。その後ろは、数寄屋橋阪急の入っていた東芝ビル。都電の車両も見える(写真:1967年1月13日、東洋経済写真部撮影)

廃止されたKK線は、今後、歩行者用の空間として生まれ変わることが決まっている。ニューヨーク、マンハッタンで、廃線となった高架線路を公園とした「ハイライン」のように、遊歩道、公共空間となり、今年11月に開催される聴覚障害者の国際スポーツ大会「デフリンピック」のマラソンコースにもなる予定だ。今後、KK線の周辺で再開発されるビルともつながり、この地区の空中回廊としての役割も果たしていくようになるらしい。

東京初の高速道路だった

このKK線の建設工事が始まったのは、1953(昭和28)年のこと。戦後復興の意味もあり、銀座地区を取り囲む形で、汐留川、外堀、京橋川の一部を埋め立ててビル状の高速道路を建設するというプロジェクトとして計画された。

1959年には土橋(新橋駅付近)-城辺橋(外堀通り沿いの銀座一丁目)間を一方通行で供用開始し、66年に蓬莱橋(汐留付近)-新京橋(京橋付近)の全長約2キロが開通。64年には首都高速羽田方面と、73年には首都高速道路の八重洲線とも接続した。

つまりKK線は、首都高速道路の最初の開通(1962年、京橋~芝浦間)より3年以上も早く開通した、東京初の高速道路だったということになる。

KK線は、ビル上を道路とする構造で建設され、その道路下の銀座インズ、銀座ナイン、西銀座デパートなどのショッピング・飲食店街などの賃貸収益で運営され、この点で通行料で運営されている首都高速道路とは異なる組織であった。

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