
東海道新幹線の開通は64年10月1日で、東京オリンピック開会の直前だったが、東京駅に通じる新幹線の高架線路の用地を都心で獲得するのは大変な難事業で、一時は単線で突破することまでが検討されたとか。
懐かしい団子鼻の0系車両が走る脇のKK線では、車の数もまばらに見える。
国鉄線路の右側に見えるIMPERIAL HOTELの建物は、54年に建てられた帝国ホテルの新館。当時は、この建物の西側(日比谷公園側)にはまだフランク・ロイド・ライト設計のライト館と呼ばれた本館建物が存在していた。
この新館は、70年代末に営業終了。83年に超高層のインペリアルタワーに建て替えられたが、その建物も昨年6月に閉館し、今後再開発予定だという。
1964年東京オリンピックに備えた建設計画
首都高速道路公団が発足したのは、1959(昭和34)年6月17日のこと。
当時都内では自動車台数が膨張を重ね、100万台を突破。
その一方で、公団設立の直前である5月26日には第18回オリンピック大会が東京で開催されることが決定していた。
大会に向けて、都心部の環状道路と、都心から外周へと向かう8本の放射線道路で構成される自動車専用道路網を整備する計画案が策定され、それを実現するために設立されたのが首都高速道路公団だったのだ。
まず、公団が果たすべき使命とされたのは、1964年に開催されるこの東京オリンピックに備え、大会開催に直接関連する首都高速1号線、2号線、3号線、4号線とその分岐線、合計30.7キロを優先的に建設することだった。
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