60年前の「アジアっぽい東京」が今の姿になるまで 当時の写真から読み解く「街が変化した」必然
この頃しみじみと感じるのは「昭和は遠くなりにけり」ということだ。昭和最後の年1989(昭和64・平成元)年からすでに35年が過ぎ、当時を知らない世代も増えている。
そんな彼らには、昭和戦後の写真の中の東京が、アジアのどこか知らない街に見えたりするらしい。
このほど、来年で設立130周年になる東洋経済新報社の写真部に保管されていた昭和の街角写真がデジタル化された。本連載では、そこに写し出されている風景から時代の深層を読み取っていく。
初回となる今回は、1960年代の東京・浅草、千駄木などの写真を紹介する。
路面電車だらけだった東京
東京の街中を縦横に都電が走っていた時代を知る人も、もはや少数派になっているだろう。何しろ、都電が全廃されたのは昭和47(1972)年のことだから、50年以上前のこと。
現在、都電と言えば、早稲田―三ノ輪橋間をつなぐ都電荒川線のことを指すと認識されているが、昭和40年代(1965~1974年)に順次廃止・撤去されていった頃までの都電は、都内に張り巡らされた路線網を持つ基幹交通インフラだった。
まずご覧いただきたい写真は、1964年撮影。浅草・吾妻橋を渡る車両。「30」番の番号を車体前面に掲げた都電の行先表示板には、よく見ると「須田町」の文字がある。須田町とは、現在のJR神田駅と秋葉原駅の中間あたりだ。
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