60年前の「アジアっぽい東京」が今の姿になるまで 当時の写真から読み解く「街が変化した」必然

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つまり、それまでは都電の軌道内に自動車は原則的に侵入してはいけなかったところ、走行してもよいことになったため、結果的に自動車が都電の進路を塞ぐ事態が発生し、この頃から都電の平均時速は時速13キロ台から昭和40(1965)年代に入ると11キロ台へと徐々に落ちていった。

バスや地下鉄への移行は時代の必然だった

池袋―数寄屋橋間の「17」番での往復時間は、1955年頃は80〜85分、1960年には90〜100分、1967年になると130〜140分となった。現在、東京メトロ有楽町線に乗ると(都電17番とは違うルートを通っているが)、池袋から、数寄屋橋のすぐ近くである有楽町駅までの片道所要時間は約23分だから、2地点間の所要時間はかなり異なる。また、1両で走る都電と、連結して走行する地下鉄では一列車で輸送できる人員数も桁違いとなる。

そんな状況を見ると、バスや地下鉄への移行は時代の必然だったということになるだろう。確かに、都電全盛期を知る戦前生まれの古老に都電の思い出を聞くと、懐かしい、風情があったという思い出を語る一方、「どこに行くにもとにかく時間がかかって大変だった」、そのうえ「目的地にいくまでに何度も乗り換えなくてはならず不便だった」という話も聞く。

そのような状況での利用者減や人件費高騰が進み、収支も赤字に。東京都は1967年に都電を全線廃止することを決定。その後1967年12月から、1972年11月の6次にわたり、段階的な廃止が行われ撤去は進んでいった。

1972年の両国二丁目の交差点。廃止直前の都電29系統がみえる(写真:東洋経済写真部撮影)
両国二丁目交差点の現在のようす(写真:編集部撮影)

都電廃止後の代替交通となったのは、バスと地下鉄である。

次の写真は、1968年、都電が走る脇で地下鉄の建設工事が行われているという象徴的な場面を捉えたカット。

1967年8月、都電が走る横で地下鉄の工事が進められている(写真:東洋経済写真部撮影)
1967年8月、不忍通り・千駄木二丁目付近(写真:東洋経済写真部撮影)
現在の不忍通り・千駄木二丁目付近(写真:東洋経済編集部撮影)  
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