60年前の「アジアっぽい東京」が今の姿になるまで 当時の写真から読み解く「街が変化した」必然

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都電「37」番、「20」番がゆく通り沿いで行われているのは営団地下鉄9号線の建設工事。9号線とは、現在の東京メトロ千代田線だ。

「37」番は、三田―千駄木二丁目間を結ぶ路線。「20」番は江戸川橋―須田町間。どちらも不忍通りを走る路線で、写真は、その不忍通りの千駄木付近の風景を捉えたものだ。

「37」番は1967年12月に、「20」番は1971年3月に廃止。一方で、不忍通りには都営バスの路線も複数走り、1969年にはこの地区に地下鉄千代田線の駅が開業。こうして都電は、バス、地下鉄に取って代わられていった。

公園に車両が保存展示されている

千駄木からほど近い文京区本駒込には、都電の神明町車庫があり、「20」番の電車は、この神明町車庫から発着していた。現在、車庫跡は都営住宅、勤労福祉会館、神明都電車庫跡公園となっていて、公園には、かつて神明車庫に所属していた6000形の車両などが保存展示され、往時をしのぶことができる。

現在、都内に唯一残る都電は、早稲田と三ノ輪橋間をつなぐ荒川線。ほかの路線は全廃されていったなか、専用軌道がほとんどで交通渋滞を誘発しない、代替する交通機関がないといった理由で残った。

現在もレトロな風情を味わうことができる都電荒川線は、まち歩き愛好者、外国人観光客などにも人気があるが、戦前生まれの古老によると、「荒川線とは、“都電”ではなく、“王子電車“、または“荒川電車”」なのだそうだ。

かつて、東京中を路線網でつなぎ、神田や上野などの都心を王様のように走っていた都電こそが、本来のものであり、東京の周縁の専用軌道で走っている荒川線はそれとは別物だという認識だ。

しかし、都電全盛時代をまったく知らない私たちにとっては、荒川線で、都電の走る街を今も擬似体験できることはやはりありがたいことだと思う。

都電荒川線と飛鳥山公園の桜並木(写真:カメさん / PIXTA)
鈴木 伸子 文筆家

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すずき のぶこ / Nobuko Suzuki

1964年生まれ。東京女子大学卒業後、都市出版『東京人』編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『中央線をゆく、大人の町歩き: 鉄道、地形、歴史、食』『地下鉄で「昭和」の街をゆく 大人の東京散歩』(ともに河出書房新社)『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』(リトル・モア)などがある。

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