「神社のそばにお寺」に潜む"神と仏"の深い因縁 「天照大神」は「大日如来」の化身とされていた
一方、神社に対しては、社僧を廃止して神仏習合を改め、吉田神道(近世神道の主流)を中心として教化することが命じられた。
天保15年(1844)3月には氏子帳の作成が命じられた。江戸時代には幕府公認の寺請け制度のもと、檀那寺が作成する宗門人別帳が戸籍台帳としての機能ももったが、それを神社の氏子帳に変えようというのであった。
また、仏式葬儀に替わって神葬祭が励行され、さらには石仏・小堂の破却も命じられ、民間信仰的な面でも仏教色の払拭がはかられた(圭室文雄『神仏分離』)。
「水戸学の影響」が色濃い宗教政策
水戸藩における天保の神仏分離は、元禄時と違って明らかに廃仏(仏教弾圧)を志向しているが、これは水戸学の影響を受けたイデオロギー的なものだ。
水戸学は神仏習合を否定して敬神と廃仏を説き、国体論を説いて幕末の尊王攘夷運動の理論的根拠となったが、斉昭は藩政改革にあたり藤田東湖 、会沢正志斎ら水戸学者を重用している。
しかし、廃仏に力点を置いた水戸藩の強引な宗教統制は、藩内寺院の本寺にあたる寛永寺 ・増上寺など幕府に近い江戸の大寺院からの非難を招き、天保15年5月、斉昭は幕府から謹慎を命じられた。そのため、水戸藩の宗教政策は未完に終わる。
とはいえ、明治の神仏分離は、水戸藩の神仏分離を大掛かりにするようなかたちで行われている。水戸藩の神仏分離は、明治の神仏分離の前哨戦となったのだ。
このほかに、津和野藩でも維新直前に社寺改正・葬祭改革が実行されている。これを推進した藩主亀井茲監(これみ)や国学者福羽美静(ふくばびせい)は、維新政府が成立すると神祇事務局に入り、中央の神仏分離政策や神祇行政などに深く関与している。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら