「神社のそばにお寺」に潜む"神と仏"の深い因縁 「天照大神」は「大日如来」の化身とされていた
神仏習合色が濃い神社では、「春日権現」「熊野権現」というように社名(地名)の下に権現号をつけて祭神が呼称され、またそれが神社そのものの呼称にもなった。
さらに、神社の祭神に対して、その本体である仏・菩薩、つまり本地仏(ほんじぶつ)を比定することが盛んに行われるようになった。
たとえば、伊勢神宮(内宮)の天照大神(あまてらすおおみかみ)の本地仏は大日如来、天満宮の天神の本地仏は十一面観音といった具合である。
このことは本地仏の仏像を神社にご神体として祀ることを促すことにもなった。
もっとも、神仏習合といっても、必ずしも「昔の人たちは神と仏をごちゃまぜにして信仰していた」というわけではない。神仏習合の本質は、「神は仏の化身である」という点にある。つまり、「神よりも仏のほうが優位にある」というとらえ方だ。
このことは、現実の寺社の運営のあり方にもストレートに反映された。神宮寺や別当寺に所属して神社のために仏事を行った僧侶は社僧(しゃそう)と呼ばれたが、神仏習合下の神社はそうした社僧を中心に運営され、検校(けんぎょう)や別当などと呼ばれる社僧の長が大きな権力を握って神社を管理した。
そして、神職は社僧よりも下位に置かれ、おおむね神社が寺院に従属するかたちをとった。
そんな神仏習合というゆがんだ信仰形態を見直し、原点に立ち返って、神と仏、神社と寺院、神道と仏教を明確に弁別し、両者に本来の姿を取り戻させよう。──それが、明治維新で実施された「神仏分離」なのである。
江戸時代に行われた「宗教政策」としての寺社整理
古代からの神仏習合に変化が兆し、神社と寺院を分けて本来のあり方に戻そうという「神仏分離」への動きがあらわれはじめるのは江戸時代からだ。
神仏分離というと明治維新とセットでイメージされることが多いが、じつはこれに先立って、それぞれの事情でいくつかの藩では神仏分離が独自に行われていたのだ。その例をみてみよう。
江戸初期の会津藩主保科正之は、幕政に参与するかたわら藩政の整備にも努めたが、寛文4年(1664)、宗教政策の手始めとして、領内の社寺の調査と整理を命じた。
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