「神社のそばにお寺」に潜む"神と仏"の深い因縁 「天照大神」は「大日如来」の化身とされていた

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その結果、神仏習合色の濃厚な神社からは仏像・仏具が除去され、荒廃した古社は再興された。正之は儒学と神道に造詣が深く、神祇信仰に篤い人物であった。

水戸藩では御三家水戸徳川家の2代藩主徳川光圀によって本格的な神仏分離が行われた。

光圀は、寛文3年(1663)から領内の寺社の調査に取り掛かり、開基帳(かいきちょう)を作成させた。寛文6年(1666)には寺院整理を開始し、経営困難な寺院、祈禱ばかりをして葬祭を本意としない寺院、年貢地や屋敷地など税のかかる土地に建立されている寺院、住職がいない無住寺院などを処分の対象とし、その結果、領内にあった2377カ寺のうち、約3割にあたる713カ寺が破却された。

逆に神社は少なく180社ほどで、領内の全578村にそれぞれひとつずつ鎮守社(神社)を置く一村一社制が目標に掲げられて神社の新建が行われた。

元禄9年(1696)には神社整理が着手され、仏像をご神体としていた神社は幣(へい)、鏡などにそれを改められ、神仏習合色の濃い八幡神社73社はいったん破却され、1社を除いて新たに祭神を勧請し、吉田明神、鹿島明神などとして再スタートした。僧侶や百姓が管理していた神社は神主の管理に替えさせた。

光圀が行った神仏分離は神仏習合を陋習(ろうしゅう)として否定するもので、あわせて、葬式・法要の民衆化、檀家制度の確立などの影響を受けて過剰気味になっていた寺院を淘汰して統制を強化し、その代わりに各村に置かれた神社を民衆支配の拠点のひとつにしようとするものだった。

寺院の「梵鐘」を鋳つぶした徳川斉昭

水戸藩では天保年間(1830~44)にも藩主斉昭のもと、再び寺社整理・神仏分離が行われている。

寺院整理は天保14年(1843)に着手され、無住、僧侶の女犯(にょぼん)・破戒などを理由として、190カ寺が処分の対象となり、破却や合併、僧侶の追放・還俗などが行われた。

同時期に、水戸藩は領内の寺院に対して梵鐘の供出を命じている。水戸藩はかねて海防の重要性を訴えて大砲の製造に着手していたが、大砲の材料として寺院の梵鐘に目をつけ、これを鋳つぶして利用しようとしたのだ。

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