名古屋は、世界も驚く「一流科学者」の宝庫だ ノーベル賞の常連「名大」に隠された秘密
昨年10月のノーベル賞発表から間もなく1年。日本人受賞者2人のゆかりの地となり、祝福ムードが続いていた名古屋の文教地区は、また静かな研究環境に戻っている。しかし「次」の候補者はまだ控えているはずだ。なぜ名古屋は世界に通用する「一流科学者」が生まれる土壌となったのか。その源流を近代学問の黎明期にまでさかのぼり、科学者たちの「DNA」を探った。
尾張で盛んだった「本草学」
江戸時代の尾張名古屋で盛んだった学問のひとつは「本草学」だ。名前のとおり「草」、つまり薬草等の植物を中心に、動物や鉱物など、ありとあらゆる自然物の薬効を調べる学問だった。
古代から日本は中国大陸の薬草を輸入し、病気治療に利用していたが、江戸時代の藩主は「薬園」を整備して自家栽培し始めるとともに、日本の植物で同じような効能がないかどうかを藩医らに調べさせた。
尾張藩では藩医の村上玄忠らが中国の文献『本草綱目』を研究、藩士で儒者の松平君山(1697~1783年)が研究書『本草正譌』を著し、尾張本草学の基礎を築いた。
江戸時代後期には尾張藩士の水谷豊文(1779~1833年)が本草学を飛躍的に発展させる。豊文は京都の小野蘭山に師事、名古屋では藩薬園の責任者を務めながら、美濃や木曽、伊勢などで薬草採集に励んだ。
4000種類に及ぶ動植物や鉱物をまとめた『物品識名』『物品識名・拾遺』は日本の本草学者の必携書となったという。
その豊文の弟子で、後に「近代植物学の父」「名大医学部の祖」とも呼ばれたのが伊藤圭介(1803~1901年)だ。
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