名古屋は、世界も驚く「一流科学者」の宝庫だ ノーベル賞の常連「名大」に隠された秘密

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名古屋の研究環境はノーベル賞受賞者を続々と輩出してきた

圭介のいた東京大学は、1886(明治19)年の帝国大学令公布で東京帝国大学となった。名古屋は遅れること実に半世紀、1939(昭和14)年に圭介ゆかりの医学校などを基に名古屋帝国大学が生まれる。その教員の多くは東京帝大や京都帝大から呼び寄せられた。たとえば素粒子物理の坂田昌一(1911~1970年)、有機化学の平田義正(1915~2000年)。彼らが名古屋で独自の学風を築き、優秀な研究者を世に送り出していった。

「坂田学派」からは益川敏英(1940年~)と小林誠(1944年~)が、「平田門下生」には下村脩(1928年~)や野依良治(1938年~)といった後のノーベル賞受賞者が出たことはよく知られている。

理工系大学が並び立つ、地域全体で研究者育成

名古屋工業大学をはじめ、理工系に強みを持つ大学が並び立つ(撮影:永谷正樹)

ここであえて視野を広げてみたい。

戦後、帝大制が廃止された1949(昭和24)年の学制改革。新制名古屋大学には名古屋経済専門学校、第八高等学校などが統合され、それぞれ名大経済学部、教養部(1993年に廃止)の前身となった。工科系でも市内には名古屋工業専門学校があり、統合して名大工学部になるべきだという議論があったという。それに真っ向から反対したのが当時の名工専校長の清水勤二(1898~1964年)だった。

清水は「名古屋地区に帝国大学という意味の工学部ではない、いわゆるカレッジとしての実務に強い、プロの技術者を養成する工科系の大学の存在が絶対必要である、という信念を持っておられた」(『東海の技術先駆者ー第2巻』名古屋技術倶楽部、1984年)という。

その願いはかない、名工専は名古屋工業大学として存続、清水が初代学長に就任する。言葉どおり、名工大を中部屈指の工科大学に育て上げた清水は、1962(昭和37)年に開館した名古屋市科学館の初代館長にもなった。

こうした気概を見せたのは、清水だけでなかったかもしれない。戦後の名古屋地域にはほかに愛工大、大同大、中部大、名城大といった理工系に強みを持つ大学が並び立つことになる。それぞれは切磋琢磨しながら、地域全体では研究者を育てる揺りかごとなる。

赤﨑勇(1929年~)、天野浩(1960年~)が往来していた名大と名城大の関係が象徴的であろう。そこに公的な研究機関や企業の研究所が加わるのは言うまでもない。

ここで最後にひとつの仮説を立てたい。名古屋の科学研究の土壌は、江戸時代以前からの豊かな環境で培われた。そこに植えられた種が芽吹き、花開くには、伊藤圭介の時代には足りなかった栄養分が必要だった。それが「地元愛」であり、「地域連携」「産学連携」と呼ばれるものではなかろうか。

(文中敬称略)

関口 威人 ジャーナリスト

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せきぐち たけと / Taketo Sekiguchi

中日新聞記者を経て2008年からフリー。名古屋を拠点に地方の目線で環境、防災、科学技術などの諸問題を追い掛けるジャーナリスト。1973年横浜市生まれ、早稲田大学大学院理工学研究科修了。

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