寛弘5(1008)年9月11日、彰子は無事に男の子を出産した。のちに後一条天皇となる敦成親王である。彰子の出産に、国内は一気にお祝いムードに沸いた。
なにしろ、式部が「平らかにおはしますうれしさの類もなきに」と書くように、安産であるだけでも喜ばしいのに「男にさへおはしましける慶び、いかがはなのめならむ」、つまり男児が誕生したのだから、その喜びは並一通りのものであるはずがなかった。
とにかくお礼を言わなければと、道長も妻の倫子も、あちこちの部屋に出入りした。
この数カ月にわたって、祈祷をしたりお経を読んだりとハードワークをこなした僧侶や医師、そして陰陽師たちに、お布施や贈り物などを与えるのにバタバタしている。思いつく限りの準備をしただけに、関係者も実に多かった。嬉しい悲鳴とは、まさにこのことだろう。
よくぞ無事に生まれてきてくれた……そんな喜びは、子の成長を目の当たりにすると、なおいっそう強くなってくる。11月には「五十日(いか)のお祝い」が執り行われた。道長は可愛い孫の敦成親王に、すりつぶした餅を食べさせている。
はしゃぎまくる道長に呆れる妻
よほど上機嫌だったらしい。『紫式部日記』によると、道長は酔っぱらいながら、会心の出来の和歌を詠んでは、こんな軽口を叩いたという。
「私は中宮の父にふさわしく、私の娘としても中宮は恥ずかしくない。妻もまた幸運に微笑んでいるようだ。いい夫を持ったなあ、と思っていることだろう」
まったく自分で何を言っているんだか、と周囲もほほえましく思ったことだろう。だが、身内からすれば、恥ずかしくてたまらなかったらしい。妻の倫子は自画自賛する夫に呆れて、部屋から退出。道長も妻の怒りを察したのか、慌ててその後を追いかけたという。一気に酔いは醒めたのではないだろうか。
また、これは年月が経ってからの話だが、7歳になった敦成親王が三条天皇と初めて会ったときのことである。三条天皇の前で、孫がマナー作法を完璧にこなす姿をみて、道長は感動。涙まで流したという。孫バカまっしぐらだ。
待ち望んだ彰子の出産が、道長にもたらした喜びがいかに大きかったかがよく伝わってくる。
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