「五十日のお祝い」に話を戻すと、夫のはしゃぐ姿が痛々しいのはわかるが、何も倫子は退出までしなくてもよいのではないだろうか。
そんな気もしてしまうが、当時の状況をよく考えると、倫子の行動も理解できる。
どういうことか。それは、敦成親王の誕生によって、明るい未来が閉ざされた人もいるということだ。
実は彰子の出産に喜べなかった面々
一条天皇のもとに、娘の元子を入内させた藤原顕光もしかり。また、娘の義子を入内させた藤原公季らもしかりだ。もし、彰子が子に恵まれなければ、彼らは天皇の親戚として権勢を振るうチャンスがあった。
しかし、最高権力者である道長の娘が、一条天皇の子を生んだとなれば、後継者はほぼ決まったも同然であろう。
伊周や隆家にいたっては、妹の定子が一条天皇との間に第1皇子の敦康親王を生み、その後、さらに二人の子を成して亡くなっている。彰子が子どもさえ生まなければ……という思いはどうしてもよぎるだろう。
敦成親王が生まれてもなお、一条天皇は定子の忘れ形見である、第1皇子の敦康親王のほうを後継者としたがったが、道長がしっかりと手を打っている。藤原行成を通じて、天皇を説得。何の後ろ盾もない敦康親王に継がせても、本人はかえって不幸になりかねない……と納得させている。
後継者を敦成か敦康のいずれにするかについては、意外にも、娘の彰子が道長に反発した。一条天皇の望み通りに、自分の息子ではなく、敦康親王に継がせるべきだと、彰子は考えたのである。彰子は養母として、敦康親王の立場に同情したようだ。
だが、願いはかなわず、父に押し切られてしまうと、行成が『権記』に「后宮は丞相を怨み奉られた」と書いているように、彰子は父・道長のことを恨んだのだという。
そんなふうに、敦康親王をはじめとして、敦成親王の誕生によって、運命が変わった人のことを思えば、酔っぱらって無邪気に自分の一族の栄華を誇るのは、あまりにデリカシーがない。妻の倫子は、いたたまれなくなって、その場を立ち去ったのであろう。
そうして自分の妻や娘に失望されながらも、道長は権力掌握にひた走ることになるのだった。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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