それだけに、一条天皇に嫁がせた彰子が懐妊したときには大騒ぎとなった。無事に出産できるようにと、最大限のバックアップが行われている。
紫式部は日記に次のように書く。
「月ごろ、そこらさぶらひつる殿のうちの僧をば、さらにもいはず、山々寺々を尋ねて、験者といふかぎりは残るなく参り集ひ、三世の仏もいかに翔りたまふらむと思ひやらる」
(この数カ月ずっと控えている邸内にいる大勢の僧侶たちは、言うまでもないが、山々や寺々を尋ね回って探し出した、修験者という修験者は1人残らず参集している。三世の仏もどれだけ飛び回って、邪霊退治を行っていることだろうかと、イメージが膨らむというものだ)
結局、その日は何事もなく暮れて、次の朝がやってきた。いつ生まれるのかわからないなかで、これだけの体制を備えておくのは、さぞ大変だったことだろう。
式部が改めて彰子を尊敬したワケ
翌日もまた賑やかだったらしい。御帳台の東側では、内裏から来た女房たちが集った。そして反対側の西側では、「御もののけ移りたる人びと」、つまり、中宮のもののけが移った憑坐(よりまし)たちが屏風に囲い込まれていたという。憑坐とは、修験者や巫子が神を降ろすときに、神霊を乗り移らせる童子や人形のことだ。
その囲みの入口には几帳を立てて、「験者あづかりあづかりののしりゐたり」とあるように、修験者たちが憑坐1人ひとりを担当して祈祷の声を上げていたという。式部は次ように描写している。
「頼みみ恨みみ、声みな涸れわたりにたる、いといみじう聞こゆ」
祈願したりまた恨んだりしながら、皆が一様に声を枯らしており、それがたいそう尊く聞こえる――。
これほど物々しい雰囲気では、妊婦がかえって不安になりそうだが、出産を控えた時期の彰子はどんな様子だったのか。式部はこう書いている。
「悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させたまへる御ありさま」
(出産を控えて身体もつらいに違いないのに、平静をよそおって隠していらっしゃる)
いかにも控えめな彰子らしい。そんな姿をみて、式部はこんな思いに駆られたのだという。
「憂き世の慰めには、かかる御前をこそ、尋ね参るべかりけれ」
(つらいことが多いこの世で心を慰めるには、探し出してでも、このようなお方にこそお仕えすべきだ)
式部が中宮の彰子に仕えた経緯は、よくわかっていない。だが、どんな巡り合わせにしても、式部は運命の出会いに感謝したことだろう。
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