対話の現場/異なる正義の衝突 罵声を対話的に考える

✎ 1〜 ✎ 9 ✎ 10 ✎ 11 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
対話の現場/異なる正義の衝突 罵声を対話的に考える

北川達夫 日本教育大学院大学客員教授

ちょっと前のことだが、鉢呂吉雄・前経済産業相の辞任会見において、一人の記者が大臣に浴びせた罵声が話題になった。

東日本大震災の被災地をめぐる一連の(不適切とされる)言動が、鉢呂氏の辞任の原因である。オフレコの場での言動もあったため、その具体的内容を問いただす記者がいた。だが、鉢呂氏は「不信を抱かせるような言動」と繰り返すばかりで、具体的内容は示さなかった。押し問答が続くうちに、記者の言葉が徐々に荒くなっていった。そして、「何を言って不信の念を抱かせたのか、説明しろって言ってんだよ」と、罵声を発するに至ったのである。

このときは、さすがにほかの記者たちから、粗暴な言葉遣いをたしなめる声が上がった。また、当の記者も行き過ぎを認めて、後に鉢呂氏に謝罪したともいう。

だが、記者会見において罵声が飛び交うのは、決して珍しいことではない。「世間をお騒がせした」組織や個人が記者会見をすると、記者の方々は(もちろん全員ではないが)なぜか居丈高になるのである。

マスメディアの責任ある立場の方々に話を聞くと、こういった風潮に対して全体に批判的である。すなわち、マスメディアは報道機関であって懲罰機関ではなく、そうであってもならない。記者個人が自分自身を「正義の味方」になぞらえるのは、傲慢な思い上がりにすぎない、というのである。

ただ、批判する一方で、擁護する声も少なくない。すなわち、罵声は仕事熱心の表れであり、行き過ぎの面も多少はあるかもしれないが正義感の発露でもある。決して悪意はなく、むしろ正義感が暴走したのだと理解してほしい、というのだ。

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事