嘲笑と罵声によって対話が破壊されるとき
罵声とは不思議なものである。一般に悪いものと見なされがちであるが、「わかりあえる人間関係」、あるいは「わかりあうべき人間関係」においては、プラスの効果を生むことも少なくない。これは体育会系のクラブにおいて顕著であるが、会社などの組織においても、罵声が適度な刺激になることはあろう。
ただ、その人間関係の外にいる者にとっては、罵声はつねに醜悪である。カサにかかった物言い、独善的で居丈高な態度は見苦しいものだ。あるいは、他者が罵倒されるのを見て、自分の溜飲を下げることもある。この場合、一時的に気分はよいかもしれないが、その自分の姿を客観的に眺めると醜悪なのである。
対話教育においては、その学習集団を「嘲笑と罵声」が支配していないかどうかを、まず観察することになっている。誰かが何かを言うたびに、嘲笑や罵声をもって迎えられるような環境においては、何を話し合ったところで、不毛な「戦うコミュニケーション」になるか、嘲笑と罵声を恐れて誰も何も言わなくなってしまう。まず意識改善を図らないことには、対話どころか、まともなコミュニケーションすら成り立たないのである。
人間はさまざまであって、すぐに激高して罵声を発する人もいれば、戦略的に罵声を発する人もいる。対話においては、こういう人たちには一時的な退場を求めるのが通例である。だが、完全に排除するのも対話的態度ではない。対話の理想を実現するのは難しいものだ。
日本教育大学院大学客員教授■1966年生まれ。早大法学部卒、外務省入省。在フィンランド大使館に8年間勤務し退官。英、仏、中国、フィンランド、スウェーデン、エストニア語に堪能。日本やフィンランドなど各国の教科書制作に携わる。近著は『不都合な相手と話す技術』(小社刊)。(写真:吉野純治)
(週刊東洋経済2011年10月8日号)
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