なるほど──といっても、主張の正統性を認めたわけではない。なるほど、これでは罵声が飛び交う風潮はなくならないわけだ、と得心が行ったのである。
正義が不義に対して罵声を浴びせる。ある意味で当然のことなのかもしれない。では、対話において、罵声をどのようにとらえるべきか。これが今回のテーマである。
正義感による罵声か 罵声が正義なのか
本連載で繰り返し述べてきたことだが、対話的観点からすると、唯一絶対の「正義」は存在しない。国によって、文化によって、社会集団によって、時には個人ごとに、正義は異なるものなのである。正義の違いから衝突が生まれ、衝突から対話が生まれるのだ。
対話から新たな価値が生まれる可能性もあるが、徹底的に決裂する可能性もある。異なる正義は互いに互いを不義と見なしがちであり、「人の道に外れている」、だから「人として許せない」と、相互に排斥的に受け止めがちであるからだ。
ここで「正義」という言葉を用いているが、あまり難しく考えないほうがよい。むしろ下世話なものとしてとらえたほうが、わかりやすいし、何よりも面白いのである。
資本主義の精神について、マックス・ウェーバーだったか、金儲けをしたいという衝動ではなく、金儲けを正義と見なす態度であると定義した。金儲けをすることが正義になれば、金儲けを否定することは不義となる。それこそが資本主義だというのである。
この発想を、さまざまな状況に当てはめて考えると面白い。
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