北里柴三郎が「日本近代医学の父」と称される理由 「ドンネルの男」と呼ばれた世界的医学者の功績

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北里は明治25(1892)年5月に帰国した。コッホの下、約6年半に及ぶ留学中にあげた画期的な成果に対し、英国やアメリカから、「うちの研究室に来てください」「あなたの研究所を作る」「望みの報酬を提供する」といった破格の誘いが多数寄せられた。しかし、北里は国費で留学させてもらった恩に報いる気持ちが強く、全て断って帰国した。

ところが、北里に働く場所がなかった。これは北里が留学中に起こした脚気の原因にまつわる東大医学部派との論争に起因していた。東大派は脚気の原因に、脚気菌の存在を主張したのに対し、北里は、自分で行った実験結果から、脚気菌説を真っ向から否定した。

脚気菌説を唱える学者は、その昔、北里が指導を受けた細菌学者だったので、北里は恩師への礼儀を知らない、と糾弾された。一方、北里は学問に私情ははさむべきではないと科学性を前面に押し出し、これに反論した。

後年、北里の主張は、ビタミンB1の欠乏が原因と判明したことにより、結果的に、北里の正当性が確認された。

不遇な境遇を救った福沢諭吉の支援

こうした派閥的なしがらみもあり、世界的な実績をあげて帰国しながら、北里は仕事もなく空虚な日々を送っていた。

この北里の不遇と窮地を救ったのは、福澤諭吉だった。福沢は、優れた学者を遊ばせておくのは、国家の恥である、として、援助を申し出た。そして、芝公園内の借地を提供し、建坪10坪余の家屋を建てた。さらに、森村市左衛門も資金援助を買って出た。この福澤との縁で、後年、北里は慶応大学医学部を創設している。

明治25(1892)年10月、小規模ながら伝染病研究所が建てられ、日本の細菌学の研究が緒についたのである。しかし、すぐに手狭となり、明治27(1894)年、愛宕町に移転した。この年、北里はペスト菌を発見し、門弟たちの研究も充実し、実績もあがった。その象徴的な事例の1つが志賀潔による赤痢菌の発見だった。

その後、伝染病の研究はますます重要性を増し、北里の伝染病研究所は、明治32(1899)年に内務省所管の国立伝染病研究所となった。

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