北里柴三郎が「日本近代医学の父」と称される理由 「ドンネルの男」と呼ばれた世界的医学者の功績
国家機関に組み込まれた事業内容は、1、研究。2、診療。3、講習。4、予防と治療材料の製造の4分野だった。さらに研究の規模や事業内容も拡大し、研究所は、明治39(1906)年、芝区白金台町の1万9000坪余の広大な敷地に移転した。北里所長の下、研究所は順調に運営された。
大正3(1914)年10月、時の政府、大隈内閣は突然、伝染病研究所を内務省から文部省の管轄下に移し、東京帝国大学の付属機関とする旨、発表した。これが、世に言う、“伝研移管事件”だった。
北里への事前の相談もなしにいきなり移管を決めたことで、世間は東大派の陰謀を嗅ぎとり、北里に同情した。学問世界の騒動が社会面を賑わせた最初の事件となった。北里が61歳のときである。
破傷風免疫体の発見でノーベル賞候補に
北里は伝研を辞め、急遽、自前の研究所の設立を決めた。すると、この苦境に旧研究所の学者や職員たちが一人も辞めずに北里の下に付き従った。
北里の部下や同僚に接する態度には、北里特有の信念があった。それは、「任人勿疑、疑勿任人(人に任(にん)じて疑う勿(なか)れ、疑いて人を任じる勿れ」である。その意味は、一旦(いったん)人に任じたら(まかせたら)信じて疑わない。また、疑って人に任じない、という信条である。
この信念と人徳が伝研移管事件の際に研究所の職員たちがとった態度に如実に示された。誰一人辞めなかったのである。「北里研究所」は今日もなお存続し、北里精神の下、医学の研究、発展に貢献している。
ところで、北里は第1回ノーベル賞の候補にあがっている。北里が発見した破傷風菌免疫体(抗毒素=抗体)は免疫血清療法の夜明けを告げる革命的業績だった。だが、同僚のベーリングが受賞し、北里は受賞には至らなかった。北里の業績を評価すれば、今日なら問題なく受賞しただろうが、ノーベルの死後、さして年月が経っておらず、賞自体の体制も整っていなかった。また、当時の日本はまだ極東の小国で、さらに有色人種に対する差別意識が色濃く残っている時代でもあり、不受賞という不平等な結論に至ったものと考えられる。
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