「千年古びない浮気描写」の妙を角田光代と語る 源氏物語の新訳に挑んだ5年がもたらしたもの
――一方、源氏物語には小児性愛や連れ去りといった、現代においては不適切とされる場面も多々あります。訳者として、また読者として、どう向き合いましたか?
とくに嫌悪感はありませんでした。千年前の、しかもフィクションに、現在の不適切という感覚を当てはめては考えませんでした。ただそんな中でも、時代の変化みたいなものは確かに感じました。
どういうことかというと、例えば、藤壺のお話。光源氏は父親(帝〈みかど〉)の後妻である藤壺と浮気して身ごもらせてしまうのですが、この逢瀬のとき、藤壺自身は光源氏をどう思っていたのか。つまり、忍び込んでくるのを待っていたのか、それとも拒んだのに犯されてしまったのか。
この点、実は歴代の源氏物語の専門家たちの中でも解釈が分かれているんです。訳し終わってしばらくしてからそのことを知って、びっくりしました。
何がびっくりって、解釈の入り込む余地なんてないと思っていたんです。「待っていた」とはどこにも書いてないし。だから、それぞれの解釈には「どう読みたいか」が少なからず影響しているのではないかと感じました。
ちなみに私は、藤壺は「嫌だった」派なんですね。嫌だったのに犯されてしまって、だから帝に顔向けできないと。創作が入るなら別ですが、原文を読む以上はみんなそう受け取るだろうと、疑いもしませんでした。
「#MeToo運動」広がった後の訳者
――角田さんがそう読んだ背景に、「時代」があると。
私が、#MeToo運動(セクハラや性犯罪被害の体験を共有し、それにあらがう運動)が広がった後の訳者であるのは大きいと思います。たぶんその考え方が、私の中にも根付いている。だから藤壺も、ウエルカムだったはずがない、嫌だと言えなかったのだと、自然に捉えたのかなと。
実際、そういう話がよく騒がれていますよね。被害を受けたと告発した人が、「それならなぜ被害に遭ったそのときに言わないの?」みたいに責められるケースもある。いや、言えなかったんでしょう。そうされた自分が悪かったのだと思い込んでしまったんでしょう。
やっと最近「そのとき言えなかったのは、受け入れたのではなくて、嫌すぎて認められなかった」という声が理解されるようになりましたよね。完全に理解されたとは言いがたいですが。
そんな時代の中にいると、やっぱり藤壺もそうだったんじゃないかと思ってしまう。10年前に読んだならこういう感想を持たなかったかもしれないし、もし50年後に訳す人がいるなら、また別の読み方、感じ方をするのかもしれません。
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