度肝を抜かれた「小学校の怪授業」から得た教訓 なぜ人は文章を書くのか、なぜうまく書けないか

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すべてが間違っていると指摘された担任は、これまで見せたことのない笑顔を見せてこう言った。

「今日の先生はすべてを間違えました。算数は国語になったし、漢字の読み方も違います。言葉も間違えました。あとジャージを着る方向も間違えています。ぜんぶ間違えました」

一呼吸おいて続ける。

「先生が間違わないと思ったら大間違いです。先生も間違えます」

そういった時代だったとはいえ、体罰も辞さず恐怖で支配していた先生は絶対的な存在だった。そんな先生が間違えるはずがないと思っていた。現に、算数の時間なのに国語の朗読を始める先生を見て、僕たちは自分たちが時間割変更を聞き漏らしたに違いないと考えていたのだ。間違えるのは僕たちであり、大人であり、先生であり、恐怖の対象である担任が間違えるとは思っていなかったのだ。だから僕らはそれを指摘できなかった。

「絶対に間違えるはずがない人が間違えたとき、それを指摘するのは難しいです」

むしろ、わかりやすいように支離滅裂に間違えて謎言語を発してくれたからこそ勇気のある児童が声を上げることができた。ただ算数と国語を間違えた程度だったら誰も指摘できなかったと思う。先生は間違えないからだ。

先生より間違いを指摘するのが難しい存在

「でも、それ以上に間違いを指摘するのが難しい存在がいます」

先生の言葉にまた教室がざわついた。この恐怖の担任より指摘しにくい相手がいるのか。にわかには信じられない言説だった。

そして先生が指摘したその対象は意外な人物だった。

「それは自分です」

僕たちは未熟だ。小学生なのだから当たり前だ。僕らはそれを心のどこかで分かっていて、大人は正しく、自分たちは間違っていると理解できる部分がある。大人は間違えないという信頼だってある。けれども、自分が大人になったとき、様々な経験を経て得た意見や思考や行動、それらを間違っていると感じることはなかなか難しい。大人になって自分は間違っていると指摘することは怖い人に指摘する以上に勇気が必要だ。

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